伝記
シャルル9世は、ヴァロワ朝第12代のフランス国王である。1550年6月27日、サン・ジェルマン・アン・レー城に生まれた。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、十人の子のうち五番目、三番目の男子にあたり、フランソワ2世の弟、アンリ3世の兄である。生まれたときの名はシャルル・マクシミリアンといい、はじめアングレーム公、兄ルイの死後はオルレアン公を称した。洗礼はカトリックで受け、大叔母のフェラーラ公妃ルネ・ド・フランスが代母となった。幼いころから結核にかかり、病弱であったという。
早世した兄フランソワ2世を継いで10歳で即位した。在位の始まりは1561年とも1560年ともいわれる。摂政は母后カトリーヌに委ねられ、成人後も実権は母が握り続けた。シャルルはランスの大聖堂で戴冠し、オルレアンで開かれた全国三部会を主宰した。即位した王国は、すでにカトリックとプロテスタントに分裂しつつあった。母は両派の妥協を探ってポワシー会談を開いたが、合意には至らず、カオールの虐殺のような事件も重なった。その後サン・ジェルマンの勅令で、プロテスタントは農村や都市の郊外での礼拝を認められたが、ヴァシーの虐殺のあとは新教徒が武器を取り、コンデ公を頭に戦いとなった。ドルーの戦いでは新教側が敗れ、コンデもモンモランシーも捕らわれ、続いてギーズ公フランソワが銃撃で致命傷を負い、アンボワーズの和約で最初の脆い和平が結ばれた。母は、大法官ミシェル・ド・ロピタルの解釈にもとづき、王の成人の年齢を13歳に引き下げる勅令を登録させ、王は成人と宣言されたが、母は王の名で権力をふるい続けた。
母后は王を臣民に見せ、王に王国を知ってもらうため、フランス巡幸を催した。一行はバル・ル・デュク、ディジョン、マコン、ローヌ谷を経てアヴィニョン、ルーシヨン城へ進み、ここで王が出したルーシヨンの勅令は、新年の始まりを国内で統一するものであった。プロヴァンスではサロン・ド・プロヴァンスで、母は占星術師ノストラダムスと再会している。その後もマルセイユでは民衆が祝宴で迎えた。ラングドックからガスコーニュへ進むと、新教徒の多い町は王を敬意をもって迎えたが、それ以上の歓迎はなく、モントーバンでは町の武装解除の交渉が必要であった。
王は新教徒のコリニー提督を登用し、父以上に慕っていたとされる。しかし1572年のサン・バルテルミの虐殺でコリニーは暗殺され、王はそのショックに耐えきれず、全員殺せと叫んでいたと伝えられる。黒幕は母カトリーヌとされたが、実際に命令を出したのはギーズ公アンリとも言われ、王自身とする説もある。1570年に神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の娘エリザベートと結婚し、1572年に一人娘マリー・エリザベートが生まれたが、1578年に5歳で夭逝した。1573年には愛人との間に庶子シャルルが生まれ、ルイ13世の治世の1619年にアングレーム公に叙された。王はこの事件で寿命を縮めたのか、2年後の1574年5月30日にヴァンセンヌ城で死去し、嫡出の男子は残らなかった。宗教戦争が続き、王国が引き裂かれたのは、このシャルル9世の治世であった。
同じ年に亡くなった人物
- アスカニオ・コンディヴィ (1574年)
- ペドロ・メネンデス・デ・アビレス (1574年)
- パウルス・マヌティウス (1574年没)
- Guru Amar Das (1574年)
- マリー・ド・クレーヴ (1553-1574) (1574年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ラヴァル (1945年没)
- アンリ・メショニック (2009年没)
- クロード・ルイ・ベルトレー (1822年没)
- ルイ10世 (フランス王) (1316年没)
- エティエンヌ・ド・シルエット (1767年没)