HISTORICAL PERSON · 1945年没

ピエール・ラヴァル

フランスの政治家。第三共和政で2度首相を務め、1940年の敗北後はヴィシー政権の成立に主導的役割を果たし、対独協力政策を主導した。

生涯
1945年没
死亡地
フランス共和国(ヴァル=ド=マルヌ県 / フレンヌ)
出生地
フランス共和国(シャテルドン)
出典
世界地図
フランス共和国(ヴァル=ド=マルヌ県)

伝記

ピエール・ラヴァルは、1883年6月28日に生まれ、1945年10月15日に没したフランスの政治家である。第三共和政下で首相を務め、1940年のフランス敗北後にはヴィシー政権の成立に主導的な役割を果たし、積極的な対独協力政策を主導した。

ヴィシー近郊のシャテルドンで生まれた。父は肉屋と宿屋を営み、村の中では比較的裕福だったが、学問とは縁のない環境で育った。村の学校で学び、15歳でパリのリセに送られて、1901年7月に大学入学資格を取得した。奨学金を得て学士号を取り、法学の学位を修めて、1909年に弁護士となった。この年に、社会党の政治家の娘と結婚し、顧客には社会主義者や労働組合員が多くなった。彼は「貧しい人々の弁護士」と呼ばれ、ストライキの労働者や労働組合員を、政府の訴追から弁護した。説得に長けた人物であり、「噛みつきの技」と呼ばれる弁論の持ち主だったという。1914年、31歳でパリ近郊のオーベルヴィリエ市の市会議員として政治活動を始め、同年に下院議員に当選した。最初は社会党で活動したが、第一次世界大戦を機に、社会主義から保守派に転向した。1920年の社会党の分裂では独立派に転じ、政党に属さず立場を明確にしない政治家となった。弁護士としては収入が格段に増え、新聞やラジオ局のオーナーにもなった。1923年にオーベルヴィリエ市の市長となった。

下院議員と上院議員を務め、1925年から大臣になった。1931年には米『タイム』誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。1931年から32年は首相兼外相であったが、フランスも世界恐慌の煽りを受け、政権は混乱した。1934年10月から外相を務め、1935年1月には台頭するナチス・ドイツに対抗すべく、イタリアとローマ協定を結んだ。4月にはイギリス、イタリアとストレーザ戦線を締結した。1935年6月に再び首相兼外相になったが、エチオピア危機ではイタリアに宥和的な態度を取った。調停案がイタリアの侵略を認める内容だったため世論の批判を買い、案は廃案となり、1936年に議席を失った。

1940年5月にフランスがナチス・ドイツの侵攻を受けて降伏すると、アルジェリアで亡命政府を立ち上げて戦闘を継続しようとしていた大統領たちを、上下両院を代表して説得してあきらめさせた。こうして主導権を握り、第三共和政を解体して、ペタンを国家主席とするヴィシー政権を成立させ、副首相に就任した。その親独姿勢は、ドイツの勝利の日にはフランスにそれ相当の地位が与えられるだろうという打算と、ボルシェヴィズムの蔓延を恐れる反共的な考えに基づいていたという。しかしドイツ側には姿勢を見抜かれており、ヒトラーも「典型的な民主主義的政治家というやつだ」と警戒した。12月13日、副首相の地位から解任された。1941年8月27日には狙撃されて重傷を負ったが、一命を取り留め、暗殺者の処刑に反対した。1942年4月18日に、首相として政府に復帰した。ドイツ側に多数の労働力を提供し、積極的に反ユダヤの政策を掲げるなど、対独協力政策を主導した。

1944年8月に連合国軍がフランスに侵攻すると、ドイツへ脱出し、のちにスペインへ逃亡したが、アメリカ軍に引き渡された。フランス政府により、ペタンとともに戦犯として起訴され、1945年7月に大逆罪で死刑判決を受けた。10月15日の執行日の朝、青酸カリを飲んで自殺を図ったが、発見されて胃洗浄を受けた。刑場では落ち着いた態度で臨み、最後に「フランス万歳」と叫び、銃殺刑に処された。

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