伝記
孫亮は、三国時代の呉の第2代皇帝である。初代皇帝孫権の七男で、母は潘淑、のちに皇后全氏を立てた。廃位後は会稽王、さらに侯官侯となり、少帝とも呼ばれる。赤烏6年(243年)、建業の宮内殿で生まれた。母は出自が低かったが孫権の寵愛が厚く、本人も最年少の子として特に可愛がられたという。
三兄の皇太子孫和は、四兄の魯王孫覇との争いや長姉の全公主の中傷によって寵愛を失い(二宮事件)、赤烏13年(250年)に廃された。同年11月、孫亮が代わって皇太子に立てられた。太元元年(251年)に母が皇后となり、嫡出の皇子としての地位は固まった。同年12月、病の重くなった孫権は諸葛恪を太子太傅、滕胤を太常に任じて補佐させた。孫亮は幼いころから聡明で成人並みの判断力があり、傅相に礼を尽くしたため、大臣の敬意を得たとされる。神鳳元年(252年)に母が暗殺され、4月に孫権が崩御すると、孫亮は即位して建興と改元した。
即位後は諸葛恪が政権を握った。魏が南下すると、諸葛恪は東興に築城して迎え撃ち、建興元年12月に魏軍を破った(東興の戦い)。しかし翌年に合肥新城を囲んだ遠征は疫病で失敗し、諸葛恪はいっそう専横になった。同年10月、宴席で孫峻がクーデターを起こして諸葛恪を殺したが、孫亮はこの計画を知らず、怒ったという。孫峻は丞相となり、その後も専横を極めて不満を招いた。太平元年(256年)に孫峻が急死すると、従弟の孫綝が権力を継ぎ、呂拠や滕胤らを討って一族を皆殺しにするなど暴虐をふるった。太平2年(257年)、孫亮は自ら政務を執ると宣言し、「先帝はしばしば自ら詔を書いたのに、今は大将軍が事を計り、私はただ“可”と書くだけではないか」と述べた。以後は孫綝に反論することが増え、おそれた孫綝は参内を避け、孫亮は兵士の子弟から近衛軍を作って演習させた。同年、魏で諸葛誕が反乱を起こすと、孫綝は救援に向かったが、朱異が包囲を崩せず撤退すると、孫綝は激怒して朱異を殺した。
太平3年(258年)、孫亮は孫綝の誅殺を全尚・全公主・劉丞らと謀った。ところが全尚が妻に漏らし、妻が従弟の孫綝に密告したため、9月26日に孫綝が先手を打った。孫亮は弓を執って出ようとし、「孤は大皇帝の嫡男であり、位に在ること已に五年である。誰が従おうとせぬものか」と言ったが、侍中と乳母に止められた。孫綝は「少帝は精神疾病を患った」と宣言し、従わなかった尚書の桓彝をその場で殺し、孫亮を廃して会稽王に落とした。孫亮は16歳であった。
孫綝が擁立した異母兄の孫休は、まもなく孫綝を倒して親政を始めた。永安3年(260年)、孫亮がふたたび皇帝になるという流言が立ち、巫女に呪いの祈祷をさせているという告発もあった。孫休は孫亮を侯官侯に降したが、孫亮は任地へ向かう途中で自殺した。孫休による毒殺だったという記録もある。呉の滅亡後の太康年間、少府の戴顕が願い出て、遺体は頼郷に改葬された。孫亮には逸話が多い。甥の孫基が御馬を盗んで乗った際、法は平等だとしつつ、刁玄の進言で宮中に限った恩赦を行って救った。また兄の孫奮を、殺害の罪で庶人に落とされたまま赦されずにいたため、許したいと考えて章安侯に封じた。蜂蜜に入った鼠の糞を割り、中が乾いていることから宦官の偽りを見破った話も伝わる。陳寿は、孫亮は幼少で良い補佐役を得られず、退位させられたのは当然の成り行きだったと評している。
同じ年に亡くなった人物
- バッリスタ (260年代没)
- ミヌキウス・フェリクス (260年没)
- レガリアヌス (260年没)
- プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス (260年没)
- 献穆曹皇后 (260年没)
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