伝記
イヴ・モンタンは、本名をイーヴォ・リーヴィといい、1921年10月13日に、イタリアのトスカーナ地方で、ほうきの製造業者の子として生まれた、フランスで活躍した俳優、シャンソン歌手である。芸名は、子供のころ、戸外にいた彼を、母が階上から「イーヴォ、モンタ!(上がってきなさい)」と呼んでいたことにちなむという。父ジョヴァンニと母ジュゼッピーナのもと、3人きょうだいの末っ子で、姉リディアと兄ジュリアーノがいた。家は労働者の家で、政治的に活動的であり、彼は生涯この家族を敬い、共産主義への愛着を持ち続けた。母は敬虔なカトリック教徒であり、父は強固な共産主義支持者だった。ムッソリーニのファシスト政権が台頭してきた1923年、父の共産主義の活動のために、黒シャツ隊に工房を焼かれ、殴られたので、迫害を逃れて家族を連れて国を出た。アメリカへの移民を望んでいたが、マルセイユに滞在中、アメリカの領事館が新しい移民制限のためにビザを出さなくなり、一家はそのまま、この港町に留まることになった。イーヴォは2歳であった。
父は、クロットの地区で小さなほうき工場を始めたが、大恐慌の影響で、1932年に倒産した。11歳のイヴは、書類を偽り、パスタ工場に雇われた。14歳で、姉が働く女性用の美容室の見習いになり、美容師の資格を取った。のち、マルセイユの港の埠頭でも働いた。「イタリア移民」と見られて、子供時代は物質的にも精神的にも辛かった。このころ、映画に夢中になり、とりわけ、アメリカのミュージカル映画、中でも憧れのフレッド・アステアのタップに心酔した。一家はフランスの国籍を得て、イーヴォの名はイヴと改められた。1938年、17歳で、マルセイユのミュージック・ホールの「客席の係」の職を得た。やがて、舞台の前座で歌うようになり、ミュージック・ホールで歌い、巡業するようになった。
1944年にエディット・ピアフに見出され、2人の関係は数年続いた。ピアフの支援で、フランスのミュージック・ホールのスターとなった。1945年に映画デビューし、1946年の『夜の門』で、主題歌の「枯葉」を歌ってヒットさせた。1951年に、多くの作品で共演していた女優のシモーヌ・シニョレと結婚した。夫婦でフランス共産党の活動に参加し、1957年には、シニョレ同伴で、東側諸国のすべてでコンサート・ツアーを行った。映画では、1952年の『恐怖の報酬』で名を上げ、1955年には舞台の『るつぼ』にも出た。ブロードウェイの舞台を経て、1960年に、マリリン・モンローと共演した『恋をしましょう』に出演した。コスタ=ガヴラスの政治三部作で、批評家の高い評価を受けた。1961年に、映画の撮影のために来日し、鎌倉、奈良、京都などに約2か月滞在した。浮気がスキャンダルになったことが何度もあり、モンローのときには、シニョレが自殺未遂を起こしたが、1985年に彼女が亡くなるまで、夫婦の関係は続いた。1982年にワールドツアーで再来日し、「なぜ政治に関心が」と問われて、「全ての出来事は政治的ですよ」と笑って答えた。1987年に、38歳年下のアシスタントと結婚し、1988年に唯一の実子をもうけた。1991年11月9日、映画の撮影の直後、心臓発作で倒れて亡くなった。
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