伝記
ジャン・ド・ヴァロワは、フランス王シャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールの息子で、4人目の王太子(ドーファン)となった人物である。ジャン・ド・フランスとも、トゥーレーヌ公ジャンとも呼ばれる。1398年8月31日に生まれ、1417年4月5日に18歳で亡くなった。
王の四男で、9番目の子として生まれた。はじめトゥーレーヌ公に叙され、のちにベリー公、ポワティエ伯などにも叙された。姉のイザベルはイングランド王リチャード2世の妃で、のちにオルレアン公シャルルの妃となり、ジャンヌはブルターニュ公ジャン5世の妃、ミシェルはブルゴーニュ公フィリップ3世の妃となった。妹のカトリーヌは、イングランド王ヘンリー5世の妃となった。兄にはギュイエンヌ公ルイ、弟にはのちのフランス王シャルル7世がいる。王の四男にすぎなかったジャンは、王位を継ぐとは考えられておらず、妻の領地を継ぐことを期待されていた。
4歳のときの1403年5月5日にパリで、さらに7歳のときの1406年6月29日にコンピエーニュで、ネーデルラントの諸伯領の相続人ジャクリーヌ・ド・エノーと婚約した。ジャクリーヌは、ブルゴーニュ公ジャン無怖公の姪にあたる。婚約ののちジャンは、将来の義母にあたるマルグリット・ド・ブルゴーニュの宮廷があるエノーのル・ケノワの城で、ジャクリーヌとともに育てられた。これは、当時混乱していたフランスの宮廷から息子を遠ざけて安全を守り、また、将来ジャクリーヌの夫として統治する領地について、あらかじめ教えておくための、父王と未来の義父の取り決めだった。1411年4月22日に教皇が2人の結婚の特免を与え、1415年8月6日、16歳のジャンはハーグでジャクリーヌと結婚した。
結婚の4か月後の1415年12月18日に、兄の王太子ルイが亡くなり、ジャンが新たな王太子となった。1417年1月には、ブルゴーニュ公ジャン無怖公の保護のもとでパリに戻った。同年4月5日、コンピエーニュで18歳で突然亡くなった。死因は確かではなく、頭の膿瘍の影響とも、毒殺とも伝えられ、アルマニャック派に毒を盛られたという説もある。遺体はコンピエーニュのサン・コルネイユ修道院に葬られた。弟のポンチュー伯シャルルが、5人目の王太子となり、1422年に王位に就いて、シャルル7世となった。
同じ年に亡くなった人物
- Francesco Zabarella (1417年)
- ヴィルヘルム2世 (バイエルン公) (1417年没)
- ルイ2世・ダンジュー (1417年没)
- アンヌ・ドーヴェルニュ (1417年没)
- Manuel III of Trebizond (1417年)
同じ地域に関係する人物
- フェルディナン・ビュイソン (1932年没)
- ルイ2世 (西フランク王) (879年没)
- フェラン (フランドル伯) (1233年没)
- エミール・マール (1954年没)
- ダニエル・ブーランジェ (2014年没)