伝記
ロザリンド・エルシー・フランクリンは、1920年7月25日にロンドンで生まれたイギリスの物理化学者、結晶学者である。ユダヤ人の有力な家系の出身で、父エリス・アーサー・フランクリンは自由主義的な考えを持つ銀行家で、労働者向けの学校で夜間に電気や磁気を教えていた。大叔父には政治家のハーバート・サミュエルがいる。ミドルネームのエルシーは、1918年のインフルエンザの流行で亡くなった叔父の最初の妻にちなむ。ロザリンドは子供の頃から学業に抜きん出ており、6歳でロンドン西部の私立学校に入り、9歳で海辺の寄宿学校に入り、11歳でロンドンのセント・ポール女学校に進んだ。若いころは登山を趣味にしていた。
ケンブリッジ大学のニューナム・カレッジで自然科学を学び、1941年に卒業した。当時のケンブリッジは女子とユダヤ人の入学を認めてからそれほど経っておらず、女性が自由に研究に没頭できる環境ではなかったが、トップクラスの成績を収めた。物理化学の研究室に入ったが、指導教官の熱意の乏しさに失望し、1942年に英国石炭利用研究協会の研究職に就いて、石炭の結晶構造の研究を行った。この研究で1945年、25歳のときに博士号を取得している。1947年には、ケンブリッジ時代に親しかったフランス人の友人の協力を得てパリの国立化学研究所に移り、ジャック・メーリングのもとで黒鉛の結晶学的研究を行って、X線結晶学者として成長した。
1950年代の初めにロンドン大学のキングス・カレッジに研究職を得て、DNA結晶のX線による解析というテーマを与えられた。着手からおよそ1年で、DNAには水分含量の違いによる2つの型(A型とB型)があることを明らかにし、それぞれを区別して結晶化する方法を確立した。さらに散乱パターンの撮影に成功し、データは公表せずに数学的な解析を自力で進めた。1953年には二重らせん構造の解明につながるX線回折写真を撮っており、中でも有名なものが「写真51」と呼ばれる。ただ、彼女が来る前からDNAを研究していたモーリス・ウィルキンスとはしばしば衝突し、のちに、ウィルキンスがその写真をケンブリッジのジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックに見せたことが大問題となった。事情についての説明はワトソンとウィルキンスで食い違い、ワトソンは険悪な関係のせいで内緒で見せたと述べ、ウィルキンスは自分にデータを見る権限があったと釈明している。
1953年には所属先と折り合いが合わず、バークベック・カレッジに移り、物理学科長のJ・D・バナールから独立した研究班を与えられた。ここではウイルスの分子構造についての先駆的な仕事を率い、班員のアーロン・クルーグがその研究を継いで、1982年にノーベル化学賞を受けた。フランクリンは1958年4月16日に37歳で、卵巣癌と巣状肺炎のため亡くなった。1962年にワトソン、クリック、ウィルキンスがノーベル生理学・医学賞を受けたが、そのときにはすでに世を去っており、栄誉には与れなかった。無防備に大量のX線を浴びたことが癌の原因だという説もある。
ワトソンの『二重らせん』(1968年)では「気難しく、ヒステリックなダークレディ」と書かれ、否定的な評価が広まった。友人の作家アン・セイヤーは抗議して1975年に伝記を書いたが、擁護が過剰だとされ、イメージは変わらなかった。2000年代にウィルキンスの自伝などが出て、研究者としての業績が再評価されるようになり、2008年にはコロンビア大学からホロウィッツ賞が授与された。
同じ年に亡くなった人物
- グリゴリー・ペトロフスキー (政治家) (1958年没)
- エドワード・ウェストン (1958年没)
- ルイジ・ムッソ (1958年没)
- アーネスト・ジョーンズ (1958年没)
- カート・ニューマン (1958年没)
同じ地域に関係する人物
- スティーヴ・クラーク (1991年没)
- アン (イギリス女王) (1714年没)
- マリナ (ケント公爵夫人) (1968年没)
- アンソニー・アームストロング=ジョーンズ (初代スノードン伯爵) (2017年没)
- ジェームズ・マクニール・ホイッスラー (1903年没)