伝記
マックス・フリッシュは、1911年5月15日にスイスのチューリッヒで、建築家フランツ・ブルーノ・フリッシュと妻カロリーナ・ベッティーナ(旧姓ヴィルダームート)の二番目の子として生まれた、小説家、劇作家、建築家である。父の最初の結婚による異母姉と、8歳年上の兄がいた。一家は質素に暮らし、第一次世界大戦中に父が職を失って、経済状態が悪化した。父との関係はあまり情愛のこもったものではなく、母とは近しかった。ギムナジウムに通った1924年から1930年のあいだに、最初の作品を書き、上演を試みたが失敗し、のちに自分で破棄した。ギムナジウムでは、出版社を営む家の子ヴェルナー・コーニンクスと知り合い、文学や哲学の知識からたくさんの刺激を受け、友情は長く続いた。
両親は、子供たちに進路の自由があることを望んだ。それに従い、1930年から31年にかけての学期から、チューリッヒ大学でドイツ文学を学び始めた。大学には印象的な教授たちがいたが、学問のカリキュラムは、書くための道具をくれるわけではないと、すぐに気づいた。1931年5月に、スイスの主要な新聞のひとつである『新チューリッヒ新聞』に、最初の寄稿をした。同年3月に父が亡くなり、学費が続かなくなって退学し、母と自分の生活を守るために、ジャーナリズムの仕事に集中するようになった。この時期は、1932年4月に書いた小論「私は何者か」の主題となり、これが自立した作家としての仕事の本当の始まりとされる。以後の3年間に、100を超える新聞記事や文学的な作品を書いたが、自分を内省する自伝的な内容が中心で、後の作品に収められたものはわずかである。1933年2月から10月には、長い国外の旅を実現し、旅の途中に書く文芸欄の原稿で費用をまかなった。プラハでの氷上ホッケーの世界選手権についての記事も送り、ブダペスト、ベオグラード、サラエヴォ、ドゥブロヴニク、イスタンブール、アテネ、ローマなどを訪れた。
1936年にチューリッヒ工科大学に入り直して建築を学んだ。若いフリッシュは、市民としての生活と芸術家としての生活は両立しないと感じ、長いあいだ、どちらの人生を選ぶべきか迷っていた。1942年に同級生の女性と結婚し、彼女とともに建築設計事務所を開いた。ただし、妻とは1953年に離婚した。翌年から小説の発表を始め、以後10年ほどは、文学との二足のわらじで暮らした。1954年の『シュティラー』の成功ののち、作家の道を決定的に選び、家族を残して、執筆に専念した。1957年の『ホモ・ファーベル』、1964年の『我が名はガンテンバイン』などで大きな名声を得て、作家としての地位を確立した。戯曲では『ビーダーマンと放火犯』や、1961年の『アンドラ』などを書き、広い読者を得た。実存主義とブレヒトの影響を受けた作家とされる。ルポルタージュや日記の摘要も多数発表し、フリードリヒ・デュレンマットとともに、戦後スイスを代表する作家の一人とみなされるようになった。戦後社会における個人のアイデンティティ、自立、責任、モラル、政治参加などを主題とした。1991年4月4日、癌のため、チューリッヒで死去した。
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