HISTORICAL PERSON · 1991年没

クラウス・バルビー

ドイツの親衛隊員。ヴィシー政権下のリヨンでゲシュタポの治安責任者を務め、「リヨンの虐殺者」と呼ばれた。

生涯
1991年没
死亡地
フランス共和国(ローヌ県 / Pierre-Benite)
出生地
ドイツ連邦共和国(バート・ゴーデスベルク)
出典
世界地図
フランス共和国(ローヌ県)

伝記

クラウス・バルビーは、1913年10月25日にドイツのバート・ゴーデスベルク(現ボン)で生まれた親衛隊員で、最終階級は親衛隊大尉である。一家は、フランス国境に近いザール地方のメルツィヒの出身だった。父は教師で、第一次世界大戦に召集されて首を負傷し、フランス軍の捕虜となり、健康を取り戻せなかったという。1925年に一家でトリーアへ移った。1933年6月に弟のクルトが18歳で病死し、同じ年に父も亡くなったため、神学を学ぶ計画は断たれた。失業中に国家労働奉仕団に召集され、1935年に親衛隊へ入り、ナチスの情報収集機関である親衛隊保安部で働き始めた。

第二次世界大戦が始まると、ドイツの占領下に入ったオランダのアムステルダムに配属された。ここでは共産主義者、ユダヤ人、フリーメイソンの摘発と移送を担う部局に事前に配置されていたとされる。1940年10月にはオランダのフリーメイソン組織の総長を逮捕し、総長は翌年3月にザクセンハウゼン強制収容所へ移送されて2週間後に亡くなった。1942年にはフランスの占領地域のディジョンへ送られ、同年11月、29歳でリヨンのゲシュタポの責任者となった。リヨンではホテル・テルミニュスに本拠を置き、大人や子どもの囚人を拷問したとされ、「リヨンの屠殺人」と呼ばれるようになった。レジスタンス指導者ジャン・ムーランを逮捕した人物でもあり、1943年にはレジスタンス対策の功績でヒトラーから鉄十字章を授けられたという。1944年4月には、イジューの孤児院にいた44人のユダヤ人の子どもをアウシュヴィッツへ移送するよう命じた。強制移送や殺害、拷問の被害者数については、数え方が一定せず、実際はそれをはるかに上回るとの見方もある。

戦後は、本来なら連合軍の裁判にかけられてもおかしくなかったが、アメリカ軍は冷戦下の対ソ連・対共産党の情報網づくりに役立つとして、1947年から彼を陸軍情報部隊の工作員として使った。フランスが引き渡しを求め続けても、アメリカは拒んだ。1950年12月、彼は「クラウス・アルトマン」名義の旅券を受け取り、家族とともにイタリアなどを経て南米へ渡り、アルゼンチンを経て1951年4月にボリビアのラパスに着いた。1957年にボリビア国籍を得ると、ドイツ系ボリビア人としてその軍事政権の治安対策顧問を務め、チェ・ゲバラの拘束と処刑に関与したとも報じられた。武器取引や海運の会社でも財を成し、西ドイツの情報機関に雇われていたともされる。

1972年、ペルーのリマで起きた殺人事件をきっかけに、実業家アルトマンがフランスで死刑判決を受けた戦犯だと判明した。彼は公然と姿を現し、親衛隊員だった過去を称えたが、戦争犯罪に関わった覚えはないと主張した。1980年のガルシア・メサ将軍によるクーデターにも関与が疑われたが、その政権が倒れると後ろ盾を失った。1983年、社会主義政権下のフランスへ引き渡され、アメリカ政府はこの逃亡を助けたことをフランスに謝罪した。

1984年からリヨンで始まった裁判は世界中の注目を浴びた。彼は自分はフランスがアルジェリアでしたのと同じことをしたにすぎないと主張して物議をかもしたが、人道に対する罪で終身刑を言い渡された。彼は1947年と1954年に欠席裁判で死刑を宣告されていたが、フランスでは1981年に死刑が廃止されていた。獄中で1991年9月25日に没した。

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