伝記
江青は、1914年3月5日に生まれ、1991年5月14日に没した、毛沢東の4番目の妻であり、女優でもあった。本名は李雲鶴である。山東省諸城県の出身で、文化大革命を主導し、「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には、王洪文、張春橋、姚文元と「四人組」を形成して、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕され、死刑判決を受けた。のちに無期懲役に減刑され、病気治療のための仮釈放中に北京で自殺した。
何度も改名しており、出生時の名は李淑蒙で、間もなく李進や李進孩に改めた。小学校入学時には、縁起のよい李雲鶴を名乗った。女優として活動していた頃は、藍蘋の名で広く知られた。延安に移ったあと、毛沢東から、唐代の詩人銭起の詩の結びに因んで、江青という名を与えられた。1926年に父が死ぬと、天津へ転居し、工員として働き、のちに済南の従叔父を頼った。1929年に山東省立実験劇院に進み、演劇と古典音楽を学び、青島大学の図書館で副司書として働きながら、文学の授業を聴講した。1931年に最初の結婚をしたが、2か月で離婚した。1933年に、同棲していた兪啓威の影響で、中国共産党に入党した。
上海へ移り、藍蘋の芸名で女優として活動し、脇役や端役として出演する一方、労働者に読み書きを教えた。1934年には逮捕され、入獄も経験している。1935年に、アマチュア演劇人協会が上演したイプセンの「人形の家」で、ノラ役を演じ、一躍注目を浴びた。上海の外国租界の社交界でも有名人となったが、主演した「大雷雨」は酷評され、この時の遺恨が、のちの文革での王瑩らへの迫害につながったとされる。1934年に結婚した唐納とは不仲で、1937年に離婚が成立した。同年に第二次上海事変が勃発すると、兪啓威と上海を脱出し、中国共産党の本拠地、延安まで歩いて移動した。
延安に到着後、魯迅芸術学院で演劇を教えた。人気女優だった彼女は、都会的で比較的スリムな美人で、男性ばかりの延安で羨望の的になったという。やがて毛沢東と出会い、交際を始めた。江青は25歳、毛沢東は45歳であった。当時の毛沢東は賀子珍とすでに結婚しており、離婚して江青と結婚することを決めたが、朱徳や周恩来らが、スキャンダルで知られた江青を妻とすることに反発した。結局、毛沢東は、江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。1939年に二人は正式に結婚し、翌年に一人娘の李訥が生まれた。
1949年に中華人民共和国が建国されると、ファーストレディとなったが、体調を崩して、ソビエト連邦で療養した。帰国後の1960年代前半から政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。大躍進政策の失敗で、国家主席から失脚した毛沢東を支え、劉少奇の打倒を勧めた。これがやがて文化大革命につながった。1966年8月に中央文革小組の第1副組長となり、伝統演目を封建文化として排斥し、俳優らを迫害したため、京劇界は多くの名優と演目を失った。1969年と1973年に中央政治局委員に選ばれ、張春橋、王洪文、姚文元と四人組を結成した。林彪の失脚後は、文化大革命の主導権を握った。
1976年の毛沢東の死の直後、10月6日に、四人組の一人として逮捕された。1980年からの「四人組裁判」で、これが政治裁判であることを批判する言動を繰り返し、何度も退廷処分を受けた。1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)の判決を受け、1983年に無期懲役に減刑された。1991年5月14日、病気治療仮釈放中に、北京の居住地で死去した。2002年に、北京の墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- デヴィッド・ラフィン (1991年没)
- ジェームズ・アーウィン (1991年没)
- ラグナー・グラニト (1991年没)
- エド・ハイネマン (1991年没)
- アルフレート・ドンペルト (1991年没)