伝記
フランク・キャプラは、1897年5月18日に、イタリアのシチリア島ビザッキーノで、ぶどう園を営む家庭に生まれた、アメリカ合衆国の映画監督である。7人兄弟だったため家は貧しく、6歳で家族とともにロサンゼルスに移住した。父はオレンジ畑で働き、キャプラ自身も、幼いころから新聞の売り子や酒場のバンジョー弾きとして家計を助けた。苦学して1918年にスループ工科大学(のちのカリフォルニア工科大学)で工学を学び、卒業後に陸軍に従軍したが、スペイン風邪にかかって除隊した。その後は本のセールスなど、詐欺まがいの職業を転々としたのち、作家になるためにシナリオ学校に入った。しかし小説よりも映画に興味が移り、1921年に独立系のクリスティ映画社に入社した。
助監督として喜劇映画の製作に関わった。ハル・ローチに招かれて、人気の喜劇『ちびっ子ギャング』のギャグ・ライターとして活躍し、1925年にマック・セネットと出会った。喜劇俳優ハリー・ラングドン主演のコメディで長編の監督デビューを果たし、ラングドン専属の監督となったが、ラングドンが自ら監督にも進出するようになると、あぶれてしまった。1928年に、まだ小さなスタジオだったコロムビア映画に招かれた。最初に撮った『呑気な商売』の出来に、重役のハリー・コーンらが満足して専属契約を結び、以後は同社の職人監督として、『サブマリン』『空の王者』『大飛行船』などの話題作を撮った。
1931年の『奇蹟の処女』を担当した脚本家のロバート・リスキンと意気投合し、1933年に、コンビを組んで人情喜劇『一日だけの淑女』を発表した。これはアカデミー作品賞と監督賞にノミネートされ、出世作になったが、授賞式で、司会者の「フランク!」の声に、自分が選ばれたと思って席を立つと、選ばれたのはフランク・ロイドで、キャプラは赤っ恥をかいた。このときは、二度と授賞式には出席するものかと思ったという。1934年の『或る夜の出来事』は、スクリューボール・コメディで、ロード・ムービーの元祖としても評価が高く、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞の主要部門を制覇した。これにより、コロムビアは一躍メジャー・スタジオの仲間入りを果たした。1936年にゲイリー・クーパーとジーン・アーサーを起用した『オペラハット』で再び監督賞を獲得し、1938年にジェームズ・スチュワートが初出演した『我が家の楽園』では、作品賞と、3度目の監督賞を受賞した。
1935年から4年間にわたりアカデミーの会長を務め、俳優や監督の組合による授賞式のボイコット運動に抗して、第8回アカデミー賞を開催させるなど、映画以外での手腕も高く評価された。大恐慌の傷跡が大きかった1930年代に、楽天主義、アメリカン・ドリーム、ユーモア、ヒューマニズムをふんだんに取り入れた作品は、「キャプラ風」と呼ばれた。1939年には『スミス都へ行く』を発表し、批評面でも興行面でも大成功した。第二次世界大戦中は軍隊に志願し、陸軍の映画班で、新兵教育のために「われらは何故戦うのか」シリーズなどを製作して、中佐で終戦を迎えた。1946年に、これまでの集大成として『素晴らしき哉、人生!』を発表したが、興行的には惨敗し、自信を失って、作品数は激減した。1964年の短編を最後に映画界から引退し、1971年に自伝を発表した。このころから、公有となった同作が、クリスマスの時期にテレビで頻繁に放映され、若い世代から再評価されて、今ではクリスマスの定番となっている。1991年9月3日、老衰のため94歳で死去した。
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