伝記
デイム・ペギー・アシュクロフトは、出生名をエディス・マーガレット・エミリー・アシュクロフトといい、1907年12月22日にイギリスのサリー州クロイドンで生まれた女優である。中流家庭の二人の子の妹で、ただ一人の娘であった。母ヴァイオレッタ・モードは、デンマーク系とドイツ系のユダヤ人の血を引き、熱心なアマチュア女優だった。土地の管理人をしていた父ウィリアム・ウォーズリーは、第一次世界大戦で現役の軍務中に亡くなった。学校で教師の一人がシェークスピアへの愛を育てたが、教師も母も、彼女がプロの女優になることを認めなかった。しかし幼いころから女優になる決意は固く、16歳で、母が以前に教わったことのあるエルシー・フォガティの運営する演劇学校に入った。学校は声と優雅な発声を重んじていたが、彼女やのちのローレンス・オリヴィエには魅力がなく、むしろスタニスラフスキーの本を読んで多くを学んだ。
学生のうちに、バーミンガムの劇場でバリーの劇に出て、プロの舞台に初めて立った。相手役はラルフ・リチャードソンで、少女のころに巡業劇団の舞台を見て感銘を受けた人だった。1927年に学校を卒業し、ロンドン大学の演劇の免状を得た。ウエストエンドの花形にはあまり引かれず、小さな劇団で技を磨いた。最初に注目された役は、1929年の『ユダヤ人ジュース』のナエミである。同じ年に、後に出版者となるルパート・ハート=デイヴィスと結婚したが、夫は後にこの結婚を「悲しい失敗」と述べ、1933年に離婚した。1930年にはサヴォイ劇場で、ポール・ロブスン主演の『オセロ』のデズデモーナを演じた。舞台はあまり評価されなかったが、彼女の評判は優れていた。黒人の俳優と同じ舞台に立ったことで嫌がらせの手紙を受け取り、政治意識に目覚めた。
この演技に感銘を受けた一人が、ジョン・ギールグッドだった。1932年、ギールグッドの演出した『ロミオとジュリエット』で、ジュリエットを演じ、エディス・エヴァンスの乳母とともに絶賛を浴びた。1932年から33年のシーズンには、オールド・ヴィック劇場の劇団に加わった。ここは、リリアン・ベイリスが、低料金で労働者階級の観客に芝居やオペラを見せる劇場で、多くのスターが大幅に減給して出演していた。その後も、1930年代から40年代にかけてのギールグッドの劇団、シェークスピア記念劇場とその後継の王立シェークスピア劇団、1970年代からの国立劇場で、半世紀にわたってイギリス演劇の第一線を保った。シェークスピアのほかに、ブレヒトやベケット、ピンターなど現代劇にも取り組んだ。1933年の『声なき凱歌』で映画デビューした。
1951年にCBE、1956年にはDBEの称号を受けた。映画やテレビへの本格的な進出は1980年代で、1984年公開の『インドへの道』でアカデミー助演女優賞を受賞した。このとき77歳で、この部門の最年長受賞者となった。1989年公開の『おかえりなさい、リリアン』では、ヴェネツィア国際映画祭の女優賞とイタリア批評家賞を受賞した。英国アカデミー賞も3度受けている。1991年6月14日、脳卒中で亡くなった。83歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・スティグラー (1991年没)
- ジョン・タワー (1991年没)
- ビリー・ヴォーン (1991年没)
- ヴィヴィアーヌ・ロマンス (1991年没)
- 近藤台五郎 (1991年没)
同じ地域に関係する人物
- アルバート・グレイ (第4代グレイ伯爵) (1917年没)
- ロバート・クライヴ (1774年没)
- ジョン・サイモン (初代サイモン子爵) (1954年没)
- ジョン・アーバスノット・フィッシャー (1920年没)
- イヴ・アーノルド (2012年没)