伝記
諸葛誕は、中国三国時代の魏の武将・政治家である。字は公休、徐州琅邪郡陽都県の出身で、族兄に呉の大将軍諸葛瑾と蜀漢の丞相諸葛亮がいる。司馬氏が専横を強める時代にあって、親交のあった夏侯玄や、前任の揚州都督王淩、毌丘倹らが次々と滅ぼされたことに不安を抱き、反乱を起こして敗死した。
官歴は尚書郎、滎陽県令から始まる。このころ、皇帝曹丕が試運転させた船が強風で転覆したとき、助けに来た虎賁に「杜侯(杜畿)を先に助けてくれ」と言い、自身は岸まで流れ着いて一命を取り留めた。のち吏部郎、御史中丞・尚書となり、夏侯玄らと名声を集め、八達の1人に数えられた。だが董昭の弾劾に皇帝曹叡も賛同して免職となる。このときの詔勅にある「名声は地に描いた餅のようなもの」という言葉が、故事成語「絵に描いた餅」の原典である。曹芳の即位後に復職し、243年に揚州刺史、251年の王淩の乱では鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。252年の東興の戦いでは胡遵とともに7万を率いたが、丁奉の強襲で敗れた。司馬師は自らに責があるとして咎めず、諸葛誕は鎮南将軍・都督豫州諸軍事に移った。
255年正月に毌丘倹と文欽が蜂起すると、諸葛誕は同調を求める使者を斬り、司馬師の命で豫州の諸軍を指揮して寿春を占拠した。鎮東大将軍・儀同三司、のち征東大将軍・高平侯となり、3500戸を与えられる。まもなく司馬師は病死するが、弟の司馬昭が後を継いで専横は続いた。諸葛誕は不安を募らせ、金蔵を傾けて民衆や侠者の心を引き寄せ、決死の兵を集め始めた。256年には呉の侵攻の気配に乗じて増兵10万を要請し、朝廷は叛心を察した。賈充は、召し出せば災禍は小さく済み、召し出さなければ事変は遅れても災禍は大きくなると司馬昭に進言していた。
257年4月、朝廷が諸葛誕を司空に任じて召還すると、諸葛誕は「私が三公になるのは王昶の後のはず」と訝しみ、5月2日に決起した。揚州刺史の楽綝を殺し、10数万の官吏・兵士と1年分の穀物を集めて寿春城を閉ざし、末子の諸葛靚らを呉へ送って救援を求めた。呉は諸葛誕を大司徒・驃騎将軍・青州牧・寿春侯に任じ、3万の兵を派遣し、文欽らも城に入った。6月、司馬昭は皇帝曹髦を奉じ、内外の諸軍26万を率いて丘頭に駐屯しつつ、寿春の包囲を完成させた。文欽や呉の朱異が度々突破を図ったが、ことごとく返り討ちにされた。強行突破を進言した蔣班と焦彝を諸葛誕と文欽は退け、2人は11月に魏へ帰順した。鍾会の謀略で呉の全懌らも降伏し、城内の動揺は増した。
258年正月の総攻撃は失敗し、食糧は尽きて降伏者は数万に及んだ。疑心を募らせた諸葛誕は文欽を殺し、その子の文鴦・文虎は投降して司馬昭に赦された。2月20日、司馬昭の総攻撃で抵抗は皆無となり、逃走を図った諸葛誕は胡奮に斬られ、三族は皆殺しとなった。側近の兵数百名は降伏せず、「諸葛公のために死ぬのだ、心残りはない」と言って斬られ、当時の人々は田横になぞらえた。「蜀は龍、呉は虎、魏は狗を得た」と評され、諸葛誕は狗にたとえられたが、余嘉錫はこれを功ある者への賞賛と指摘する。末子の諸葛靚は呉の大司馬にまで上り、呉の滅亡後は西晋に戻ったが出仕を拒み、朝廷の方を向いて座ることはなかった。娘の1人は琅邪王司馬伷の妻となって諸葛太妃と呼ばれ、その孫の司馬睿は東晋の初代皇帝元帝となった。一門の者が3つの国で代表的な地位にあることを、天下の人々は栄誉とした。
同じ年に亡くなった人物
- キプリアヌス (258年没)
- シクストゥス2世 (ローマ教皇) (258年没)
- ノウァティアヌス (対立教皇) (258年没)
- ローマのラウレンティウス (258年没)