伝記
諸葛恪は、中国の三国時代に呉に仕えた政治家・武将である。字は元遜、徐州琅邪郡陽都県の人で、諸葛瑾の長男にあたり、蜀の丞相諸葛亮の甥でもある。弟に諸葛喬・諸葛融がいた。若い頃から機知と才気に溢れていた一方、思慮深いとはいえず、口達者で他人をやりこめるのを得意とし、才能をひけらかす傲慢さのために家族から将来を心配されていた。
幼い頃の逸話が多く伝わる。宴の席で孫権が驢馬の額に「諸葛子瑜」と書いて戯れたとき、父を笑われた諸葛恪は、その下に「之驢」の二字を書き加えることを願い出た。これで「諸葛瑾の驢馬」という意味になり、孫権らは機転に舌を巻き、驢馬は諸葛瑾に与えられた。また、皇太子の孫登に「馬の糞でも食っていろ」とからかわれると、「では太子様は鶏の卵をお召し上がりください」と言い返し、鶏の卵も馬の糞も出る所は同じだと答えて孫権を大いに笑わせた。父の諸葛瑾は「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもこの子だろう」と嘆き、陸遜も彼の人を人と思わない性格を戒めた。諸葛恪は張休・顧譚・陳表とともに孫登の側近となり、四人は「四友」と呼ばれた。蜀から使者として費禕が来た際には、「あなたに能力がないから我々はこういう態度をとっているのだ」と言い返し、互いに詩を作って場の人々を感嘆させた。老いた張昭に酒を勧めたときも、言葉で巧みに理を説いて飲み干させている。
嘉禾3年(234年)、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、山越の討伐を命じられた。彼は3年で武装兵4万人を得られると上申しており、策略を用いてあまり戦わずに山越を帰順させ、4万人以上の兵を手に入れた。この功で威北将軍となり、都郷侯に封ぜられた。赤烏9年(246年)には魏との戦いでの功績により大将軍となり、陸遜に代わって荊州の事を治めた。孫権が病に伏すと、孫峻の推挙もあって後事を託され、神鳳元年(252年)に孫権が没して孫亮が即位すると、孫弘の策謀を退けて呉の実権を握った。建興元年(252年)閏4月には太傅となり、官吏を監察する校官の制度や関税を廃し、未納の税を帳消しにして、絶大な支持を受けた。
同年10月、東興に大きな堤と二つの城を築いた。12月、魏の胡遵・諸葛誕らがこれを攻めると、諸葛恪は丁奉らを先鋒として撃破し、朱異が浮橋を壊したため魏軍は大混乱に陥って数万人が戦死した(東興の戦い)。この勝利で陽都侯に封ぜられ、揚州・荊州の牧に任ぜられて、国内の軍事全般を任されるに至った。翌建興2年(253年)、諸葛恪は周囲の強い反対を押し切って北伐を主張した。魏で司馬懿ら宿将が世を去った今が好機だと説き、3月に20万と号する大軍で魏に侵攻し、4月に合肥新城を包囲した。守将の張特が「城を100日守れば降伏しても罪にならない」と偽って時間を稼ぎ、その間に城壁を修復して抗戦したため、諸葛恪は激怒して攻めたが、呉軍に疫病が流行して多くの兵が亡くなった。7月に魏の司馬孚が救援に向かうと、諸葛恪は撤退した(合肥新城の戦い)。
帰還した諸葛恪は、遠征中に任命された長官を全て罷免し、宿衛の兵を親しい者に入れ替え、さらに青州・徐州への出陣を計画した。人々の不満が高まるなか、孫峻は孫亮とともに政変を計画した。10月、孫亮主催の酒宴で諸葛恪は孫峻に斬殺され、弟の諸葛融は自殺し、一族も処刑された。遺体は葦の筵に巻かれて丘陵に捨てられたが、のちに旧臣たちが回収して埋葬したという。
同じ年に亡くなった人物
- 聖レギーナ (253年没)
- ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス (253年没)
- マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス (253年没)
- トレボニアヌス・ガッルス (253年没)
- コルネリウス (ローマ教皇) (253年没)
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