伝記
コルネリウスは、251年3月6日または13日から253年6月25日までローマ司教、すなわちローマ教皇の座にあったとされる人物である。生年は不明である。教皇に選ばれる前の時代は、デキウス帝による迫害の嵐の中にあった。デキウス帝は250年1月から、すべての市民に役人の前で宗教的な犠牲を捧げるよう命じ、拒めば死が待っていた。多くのキリスト教徒が拒んで殉教し、その中には250年1月20日に殺された教皇ファビアヌスも含まれた。一方、命を守るために犠牲に加わる者も出た。この迫害のあいだは後継者を選ぶことができず、教皇の座は14か月にわたって空いたままとなり、その間は、ノウァティアヌスを含む複数の司祭が教会を治めた。有力候補だったモーセは迫害のなかで亡くなった。
デキウス帝がゴート人と戦うためローマを離れると、ローマの聖職者たちは新しい司教を選び、より穏健な立場のコルネリウスが、ノウァティアヌスらを退けて、不本意ながら選ばれた。21代目の教皇とされる。迫害のなかで信仰を捨てた人々を教会がゆるせるかどうかで、教会は割れていた。ノウァティアヌスは、迫害で信仰を守れなかった者は悔い改めても受け入れられず、偶像崇拝は許されない罪であり、教会に背教者をゆるす権威はなく、その赦しは神にゆだねるべきだと主張した。これに対し、コルネリウスとカルタゴのキュプリアヌスは、悔い改めと一定の償いの期間を経れば、背教者も教会に復帰できるとした。
厳格派はノウァティアヌスを司教に叙階し、コルネリウスをローマの司教と認めなかった。双方が他の司教たちへ書簡を送って承認と支持を求めた。コルネリウスにはキュプリアヌス、ディオニュシオス、アフリカと東方の多くの司教がつき、ノウァティアヌスの支持者は、ローマの聖職者と信徒の少数にとどまった。コルネリウスは60人の司教による教会会議を開いて自らの選出を認めさせ、ノウァティアヌスとその支持者を破門したが、背教者をめぐる論争はその後も何年も続いた。彼が周辺の司教たちに送った書簡には、当時のローマの教会に司祭46人、助祭7人、副助祭7人、侍祭42人、守門52人、1,500人を超える寡婦と困窮者がいたと記される。聖職者は150人以上で、教会は毎日1,500人以上を養っていたといい、この数字から、当時のローマには少なくとも5万人のキリスト教徒がいたと推定されている。
251年6月にデキウス帝がゴート人との戦いで戦死すると、後継のトレボニアヌス・ガッルス帝のもとで迫害が再開した。コルネリウスはイタリアのチェントゥリチェッレへ追放され、253年6月にそこで没した。『リベリウス目録』は死因を追放の苦難のためとするが、のちの資料は斬首されたと伝える。ローマのカタコンベの教皇礼拝堂の近くに葬られ、墓碑にはギリシア語ではなくラテン語で「殉教者コルネリウス」と刻まれた。追放中の書簡は当時の口語ラテン語で書かれ、そのうち一通には、祓魔師という役職への言及が初めて現れる。文体の違いから、彼は経済的にごく普通の家の出で、ありふれた教育を受けたのではないかと推測されている。カトリック教会の聖人で、記念日はキュプリアヌスと同じ9月16日だが、殉教の日ではない。聖遺物の一部は中世にドイツへ運ばれ、頭部はアーヘン近郊のコルネリミュンスター修道院が所蔵を主張した。
同じ年に亡くなった人物
- 費禕 (253年没)
- 聖レギーナ (253年没)
- マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス (253年没)
- 諸葛恪 (253年没)
- トレボニアヌス・ガッルス (253年没)
同じ地域に関係する人物
- イポリット・フランドラン (1864年没)
- テウトボド王 (紀元前100)
- ウルバヌス1世 (ローマ教皇) (230年没)
- エミリオ・デ・カヴァリエーリ (1602年没)
- マリア・デ・モンペリエ (1213年没)