伝記
アルベルト・モラヴィアは、1907年11月28日に生まれ、1990年9月26日に没したイタリアの小説家、評論家である。ネオレアリズモの代表的な存在で、現代の性、社会的な疎外、実存主義といった主題を探った。本名はアルベルト・ピンケルレという。
ローマの裕福な中産階級の家に生まれた。ユダヤ系のヴェネツィア出身の父カルロは建築家で画家、カトリックでアンコーナ出身の母は、祖先がダルマチアの出身だった。「モラヴィア」の筆名は、父方の祖母の旧姓に由来する。反ファシズムの運動を創設して、1937年にムッソリーニの命令でフランスで殺害されたロッセッリ兄弟は、父方のいとこにあたり、母方の叔父は、ファシスト党の内閣の次官だった。9歳で骨の結核にかかり、通常の学校を修了できず、5年間、ベッドでの生活を強いられた。3年間は自宅で、2年間はコルティーナ・ダンペッツォ近くのサナトリウムで過ごした。賢い少年で、読書に没頭し、好んだ作家には、カルドゥッチ、ボッカッチョ、ドストエフスキー、ジョイス、アリオスト、ゴルドーニ、シェイクスピア、モリエール、ゴーゴリ、マラルメらがいる。フランス語とドイツ語を学び、フランス語とイタリア語で詩を書いた。
1925年、18歳でサナトリウムを出て、ブレッサノーネに移った。その後の3年間は、ブレッサノーネとローマで過ごし、最初の長編小説『無関心な人びと』を書き始めた。1927年にコッラード・アルヴァーロらと知り合い、雑誌『900』に短編を発表して、記者としての経歴を始めた。『無関心な人びと』は1929年に自費出版され、イタリアの読書界に大きな反響を呼んだ。中産階級の母と二人の子どもの道徳的な退廃を、現実的に分析した作品である。翌年から、『ラ・スタンパ』などの新聞で活躍した。1933年には、マリオ・パンヌンツィオとともに、文芸誌を創刊した。第二次世界大戦に至る時期は、作家にとって苦しい時代で、ファシスト政権は、作品の批評を禁じ、小説を押収し、別の作品を発禁にした。検閲を避けるため、超現実的で寓意的な作風で書くことが多かった。1941年に作家のエルサ・モランテと結婚し、カプリ島で暮らした。戦争中は、ムッソリーニ政権から作品を禁書に指定され、新聞への執筆を禁じられた。抗議の意味で、「偽名」を意味する変名で執筆を続けた。
戦後は、主要紙で活躍し、1952年に短編集でストレーガ賞を受けた。代表作に『ローマの女』『軽蔑』『二人の女』『倦怠』などがある。『軽蔑』と『倦怠』、『二人の女』は、映画化もされた。1959年から1962年まで国際ペンクラブの会長を務めた。1962年にモランテと別れ、29歳下の作家ダーチャ・マライーニと同棲した。1967年に中国と韓国と日本を訪れた。1984年にはイタリア共産党から欧州議会選挙に立候補して当選し、1985年に、45歳下のカルメン・イェラと結婚した。80歳を過ぎても旺盛に書き続け、1990年、ローマの自宅で入浴中に急死した。没後に、インタビュー形式の回想記が公刊された。無神論者で、文体は事実を冷たく正確に述べるもので、ブルジョワジーの不安をしばしば描いた。
同じ年に亡くなった人物
- カール・ワータネン (1990年没)
- エットーレ・ジャンニーニ (1990年没)
- ロバート・カミングス (1990年没)
- David Samoilov (1990年没)
- Ann Bishop (1990年没)
同じ地域に関係する人物
- マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク (1903年没)
- コラード・アルバロ (1956年没)
- フォルトゥナート・バルデッリ (2012年没)
- マルクス・リウィウス・ドルスス (護民官) (紀元前91年没)
- アルフォンソ13世 (スペイン王) (1941年没)