HISTORICAL PERSON · 1990年没

セルゲイ・パラジャーノフ

アルメニア人のソ連の映画監督・脚本家・画家。トビリシ生まれで、モスクワの国立映画大学で学んだ。同性愛の嫌疑で投獄された経験を持つ。

生涯
1990年没
死亡地
アルメニア共和国(エレバン / イェレヴァン)
出生地
ジョージア(トビリシ)
出典
世界地図
アルメニア共和国(エレバン)

伝記

セルゲイ・パラジャーノフは、1924年1月9日、ジョージアのトビリシで、サルキス・ホヴセピ・パラジャニャンとして生まれたアルメニア人の映画監督である。脚本家、画家、工芸家でもあった。父は皇帝軍の年少士官だったが、革命後は古美術と中古品を商う店を営んだ。姉が二人いる三兄弟の末っ子で、幼少期には、バイオリンや歌、バレエ、絵画のクラスを受けた。1946年にモスクワの全ソ国立映画大学の監督科に入学し、ドヴジェンコやサフチェンコ、ロンムらのもとで映画づくりを学んだ。1947年の夏、トビリシの学生らとともに、同性愛の嫌疑をかけられて逮捕され、初めて投獄された。翌年の初めに釈放された。

1953年からはキエフに定住した。1954年に、ヤーコフ・バゼリャンとの共同監督で、初の長編『アンドリエーシ』を発表した。1961年に戦争の悲劇を扱った『ウクライナ・ラプソディ』、翌1962年には、宗教セクトに蝕まれる坑夫たちを描いた『石の上の花』を発表した。この時期の作品は、当局が求めた社会主義リアリズムに忠実であろうとする志向が顕著で、後年の作品との共通点は見られないとされる。1964年、ウクライナの作家コテュビンスキイの誕生百年祭に向け、『忘れられた祖先の影』の脚色を依頼された。撮影は、カルパチア山脈の東側の村で、現地の山岳民の協力のもとに行われた。1965年に完成した作品は、マール・デル・プラタ国際映画祭でグランプリを受賞するなど、その独自の様式と色彩が国際的に賞賛された。同作は日本では『火の馬』として知られる。キエフでの封切りの際には、ウクライナの知識人たちへの不当な逮捕に公に反対した。

1968年の夏には、アルメニアのエレヴァンに呼ばれ、アルメニアの吟遊詩人アシューグに捧げる、伝記絵巻『サヤト・ノヴァ』の準備に取りかかった。1969年に完成した作品は、難解で退廃的とされ、ソ連の国家映画委員会に激しく糾弾された。これ以後、パラジャーノフは10本の映画を企画したが、すべて却下された。『サヤト・ノヴァ』は、再編集されて、1971年に『ざくろの色』として再上映された。1973年12月、モスクワからの旅行の帰りに尋問を受け、キエフで検挙された。ウクライナの歴史家の裁判での証言の拒否や、ソ連当局への批判的な発言が問題視されたためと思われる。映画人たちの擁護や抗議が国内外で起こったが、1974年に有罪となり、5年間の懲役判決を受けて投獄された。ロッセリーニ、フェリーニ、ヴィスコンティ、トリュフォー、ゴダールら、ヨーロッパ中の映画人が抗議した成果もあって、1977年12月に釈放された。しかし当局には危険人物と見なされ、1982年2月に、トビリシで再び逮捕されたが、無罪となり、同年11月に釈放された。

1983年、改革的な文化政策を取ったシェワルナゼによって、再び撮影の許可が下りた。1984年に、ジョージアの民話を脚色した『スラム砦の伝説』を製作し、16年ぶりに監督として復帰した。ゴルバチョフ書記長の就任後は、ペレストロイカにより、64歳で初めて出国を許可され、自由な映画づくりが可能となった。1987年、レールモントフ原作の『アシク・ケリブ』に着手し、1988年に完成した同作は、ヴェネツィア国際映画祭などに招かれて、国際的な賞賛を受けた。1989年に自伝的作品『告白』を準備していたが、肺と心臓の病が悪化して入院し、左の肺に癌が見つかった。1990年7月、エレヴァンで肺炎により66歳で死去した。没日は20日とも21日ともされる。『告白』は未完に終わった。

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