HISTORICAL PERSON · 1990年没

バーバラ・スタンウィック

アメリカの女優。幼くして孤児となり、コーラス・ダンサーから舞台を経て映画へ進んだ。フランク・キャプラ監督の『希望の星』の成功で実力派女優として力をつけた。

生涯
1990年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サンタモニカ)
出生地
アメリカ合衆国(ブルックリン区)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

バーバラ・スタンウィックは、本名をルビー・キャサリン・スティーヴンスといい、1907年7月16日にニューヨーク市で生まれた、アメリカ合衆国の女優である。愛称はミッシー。5人兄弟の末っ子で、父はアメリカ人、母はカナダ人であった。4歳のとき、母が事故で亡くなり、その葬儀の2週間後、レンガ職人の父はパナマ運河の掘削の仕事に就いて、そのまま帰ってこなかった。孤児として里子に出され、里親のもとを転々としたのち、10歳のときにコーラス・ダンサーの姉ミルドレッドに引き取られた。姉の恋人からダンスを教わり、13歳で学校を中退して、電話会社などで働いた。15歳でジークフェルド・フォリーズのコーラス・ダンサーとなり、これを足がかりに、26歳でブロードウェイの主役を張るまでになった。劇場の支配人が、ルビー・スティーヴンスの名は、あまりに踊り子らしいとして、バーバラ・スタンウィックと改名させた。1927年にミュージカルのダンサー役で映画デビューした。1928年にヴォードヴィルの芸人フランク・フェイと結婚し、夫とともにハリウッドへ移った。

転機は、1930年に、フランク・キャプラ監督が、コロムビア社の意向に逆らって、『希望の星』に起用したことだった。キャプラは、彼女の誠実な演技に心を打たれたという。以後、キャプラの作品に5度出演し、実力派女優として力をつけた。ワーナー・ブラザースの専属契約で『夜の看護婦』などに出演した。1935年にはフェイと離婚した。原因は、フェイが映画界で成功できず、酒に溺れて、いさかいが絶えなかったからだという。『愛怨二重奏』で共演したロバート・テイラーと親しくなり、1939年に結婚した。1937年の『ステラ・ダラス』では、娘の幸せのために親権を放棄する母親を演じ、アカデミー主演女優賞に初めてノミネートされた。1941年の、プレストン・スタージェス監督の『レディ・イヴ』は、スクリューボール・コメディの大傑作といわれ、ヘンリー・フォンダを相手に一歩も引けをとらなかった。同年、ハワード・ホークス監督の『教授と美女』でゲイリー・クーパーを誘惑するダンサーを演じ、2度目のノミネートを受けた。

1944年に、ビリー・ワイルダー監督のフィルム・ノワールの傑作『深夜の告白』に出演した。保険セールスマンをそそのかして夫殺しを手伝わせる人妻という、それまでのイメージからは想像できないファム・ファタールを演じて、3度目のノミネートを果たしただけでなく、その年のアメリカの女優の最高所得者となった。1948年の『私は殺される』では、殺人計画を知った病弱な女性を演じて、4度目にして最後のノミネートを受けたが、受賞には至らなかった。1951年にテイラーと離婚した。1960年代に入ると、映画の出演は減り、友人のコラムニストからヨーロッパ映画に出ることを勧められても、「いいの、わたしはここが好きなの」と答えた。かわりに主にテレビで活躍し、1960年から1961年は自分の名前を冠した番組のホストと主演を務めた。1965年に始まり、日本でも人気を博した『バークレー牧場』では、出演のほかプロデュースも務め、エミー賞を獲得した。1982年にアカデミー名誉賞を授与され、1983年のテレビのミニ・シリーズでは、ゴールデングローブ賞と3度目のエミー賞を獲得した。1987年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートから生涯功労賞が贈られた。1990年1月20日、カリフォルニア州サンタモニカで、心不全により亡くなった。

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