伝記
ロザリンド・ラッセルは、1907年6月4日にアメリカ合衆国コネティカット州ウォーターバリーで生まれた女優である。本名はキャサリン・ロザリンド・ラッセルで、評判のよい弁護士の父ジェームズ・エドワードと、教師だった母クララの7人の子の真ん中にあたる。一家はアイルランド系アメリカ人のカトリック教徒で、名前は両親がかつて乗った船にちなんでつけられたという。カトリック系の学校に通ったあと、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アートで演技を学んだ。両親は娘が教師になるために勉強していると思っていたが、本人は喜劇女優を目指していたとされる。
最初はファッション・モデルとして働き、ブロードウェイの舞台にも関わった。卒業後は両親の反対を押し切って劇団に加わり、サラナク湖やハートフォードで7か月間働いた。次にボストンへ移り、1年間劇団で演じた。その後ニューヨークのレビュー『ギャリック・ゲイエティーズ』に出演し、声楽の稽古を受けてオペラ歌手も志したが、高い音が出にくかったため長くは続かなかった。1930年代の初めにロサンゼルスへ行き、ユニヴァーサル映画と契約した。しかし撮影所に着いた当初は制作陣にほとんど相手にされず、屈辱を感じたとのちに記者に語っている。会社の二流という扱いにも不満で、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーに目をつけ、自分の条件でユニヴァーサルとの契約から抜け出した。メトロ側が試験撮影に誘ったときは警戒したが、ハロルド・ブケが撮った自分の顔のアップが決め手で採用されたと、のちに振り返っている。
1934年に『悪夢』で映画デビューした。役は小さかったが好評を得た。同年のコメディ『結婚十分前』のほか、1936年のドラマ『クレイグの妻』、1938年の『城砦』などに出演し、1935年の『空の軍隊』で初めて評価された。若いころは、私生活でも映画でも洗練された貴婦人として売り出され、その印象に不満を述べたことがある。イメージを変えるためフランク・ロイド監督に頼ったところ、1936年の『二国旗の下に』で裕福な貴族の役に選ばれた。1939年には、ジョージ・キューカー監督の女性コメディ『ザ・ウィメン』で、うわさ好きのシルビア・ファウラーを演じて大ヒットさせ、喜劇女優としての評価を固めた。
最大の当たり役は、1940年にハワード・ホークス監督が撮ったスクリューボール・コメディ『ヒズ・ガール・フライデー』の女性記者ヒルディ・ジョンソンである。ケーリー・グラントが演じる新聞編集長の元妻という設定であった。その後も『世界の母』(1946年)、『メイム叔母さん』(1958年)、『ジプシー』(1962年)などに出演した。アカデミー賞の主演女優賞に4回ノミネートされ、ノミネートされたゴールデングローブ賞は5回とも受賞した。1953年にはブロードウェイのミュージカル『ワンダフル・タウン』のルース役で、トニー賞のミュージカル主演女優賞を得た。のちにジーン・ハーショルト人道賞も受賞している。
優雅で華やかな役が多かったが、性的な魅力を売り物にしなかったことが長い経歴につながったと自身は考えていた。裁判官、記者、精神科医といった職業を持つ女性を演じることが多かったのも、同時代の女優としては珍しい。1930年代から1970年代まで活躍し、1976年11月28日、ロサンゼルスで亡くなった。
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