伝記
ノストラダムスは、1503年12月14日にプロヴァンスのサン=レミで生まれ、1566年7月2日に没したルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人である。本名はミシェル・ド・ノートルダムで、ノストラダムスは姓をラテン語風にした名にあたる。日本では「ノストラダムスの大予言」の名で知られる詩集の著者として有名で、その予言は現在に至るまで多くの信奉者を生み、様々な論争を引き起こしている。
先祖は改宗ユダヤ人で、父方は14世紀末以降アヴィニョンで商業を営んでいた。曽祖父と祖父は15世紀半ばにユダヤ教からキリスト教へ改宗し、祖父はピエール・ド・ノートルダムと改名した。父方の祖父が善良王ルネに仕えた医師・占星術師だったという説は、ノストラダムスの弟や長男ら親族による誇張で、実際には商人だったとされる。父ジョームも当初はアヴィニョンの商人だったが、のちにサン=レミへ移り住んだ。母もキリスト教徒であったと推測されており、ユダヤ人の定義には当てはまらない。公刊された著作では王党派カトリック信徒の姿勢を示し、『1562年向けの暦』は教皇ピウス4世に捧げられたが、ルター派の顧客への私信ではプロテスタントに好意的な姿勢も見せており、相手に応じて言葉を使い分けていた可能性が指摘されている。
幼少期の教育については、母方の曽祖父が教育係を務めたという話があるものの、その曽祖父は1504年頃に没していた可能性が高く、誰から何を学んだかは明らかでない。15歳前後の1518年頃にアヴィニョン大学へ入り、自由七科を学んだようだが、史料的な裏付けはない。1520年頃にペストの流行で南仏の大学が休講となり、学業は中断したと推測され、本人によれば1521年から1529年まで各地を遍歴して薬草などの知識を集めた。1529年10月23日にモンペリエ大学医学部へ入学したが、博士号取得の記録は確認されておらず、学生出納簿には名を抹消した形跡と、医師たちを悪く言ったかどで告発された旨の記述がある。
その後はアジャンに移り、開業医として働くかたわら、学者として知られたスカリジェから多くを学んだらしい。1531年にアンリエット・ダンコスという女性と結婚したことが、1990年代に見つかった結婚契約書から窺えるが、1534年頃に妻子とも亡くなったようで、ペストが有力視されるものの実際は不明である。やがてスカリジェとの仲は険悪になり、1538年春にはトゥールーズの異端審問官から召喚を受けたようだが、理由は聖人を冒涜したことを問題視されたという程度しか分かっていない。妻子との死別も一因となって再び旅に出たとされ、1530年代後半以降しばらく足取りが途絶える。
1544年にマルセイユの医師ルイ・セールに師事したとされ、1546年にエクスでペストが流行すると、市の要請を受けて治療に赴いた。エクスの古文書館には、この年の6月に契約金が支払われたことを示す会計簿と契約書が残る。鼠退治や火葬を命じたなどの伝説があるが、後年の『化粧品とジャム論』の記述に当時の医学知識を超えるものはなく、隔離などの措置も当時としては一般的だったとされる。1550年頃から占星術師としての執筆も始め、四行詩形式の『予言集』が難解さゆえに後世さまざまに解釈された。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者にも賛嘆する者が現れ、1564年には国王シャルル9世から常任侍医兼顧問に任命され、その2年後、病気により62歳で没した。
同じ年に亡くなった人物
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