HISTORICAL PERSON · 1989年没

セルジオ・レオーネ

イタリアの映画監督、映画プロデューサー、脚本家。1960年代に『荒野の用心棒』などのイタリア製西部劇をヒットさせ、マカロニ・ウェスタンブームを巻き起こした。

生涯
1989年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

セルジオ・レオーネは、1929年1月3日にローマで生まれたイタリアの映画監督で、プロデューサーであり、脚本家でもある。父は黎明期のイタリア映画界で活躍した映画監督のヴィンチェンツォ、母は元女優のエドウィジェで、両親とも映画関係者だったため、幼いころから映画を身近なものとして慣れ親しんだという。1946年に17歳で、父の反対を押し切って映画界に入り、イタリアで撮影中のアメリカ人監督の助手として働き始めた。父の友人であった監督のマリオ・ボンナルドに目をかけられ、多くの作品で助監督を担当した。

1950年代後半のイタリアでは、「ソード&サンダル」と呼ばれる歴史劇のブームとなり、レオーネもイタリアやアメリカの資本による多くの歴史劇に参加した。1959年にはハリウッドの超大作『ベン・ハー』の第2班監督を務めた。ボンナルドが病気のため降板した『ポンペイ最後の日』(1959年)を引き継いだこともあるが、名前が実際にクレジットされた監督デビュー作は、1961年の『ロード島の要塞』である。これらは興行的には成功したが、本人は後年、全く郷愁を感じないと述べている。

1960年代に入ると歴史劇の大作が次々と失敗し、イタリアの歴史劇ブームは急速に終わり、映画産業も大打撃を受けた。そのころ、イタリアで公開された黒澤明の『用心棒』(1961年)に深い感銘を受け、1964年に、これを西部劇風に翻案した『荒野の用心棒』を監督した。低予算ながら世界的な大ヒットとなり、マカロニ・ウェスタンのブームの火付け役となった。ただ、正式な許可を得ていなかったため、黒澤側に著作権侵害で訴えられ、黒澤プロにアジアでの配給権と、全世界の興行収入の15パーセントを支払うことになった。続く1965年の『夕陽のガンマン』も大ヒットし、独自の演出スタイルを確立して、マカロニ・ウェスタンの巨匠と目されるようになった。1966年には、ユナイテッド・アーティスツから出資を受け、120万ドルの予算で『続・夕陽のガンマン』を監督した。南北戦争の動乱を舞台に、3人のガンマンが隠された金貨をめぐって争うこの作品は、従来の枠組みを超えた大作となった。クリント・イーストウッド主演のこの3作品は、「ドル箱三部作」と呼ばれる。

1968年にはパラマウントで『ウエスタン』を撮った。自身の愛する西部劇への挽歌で、ヘンリー・フォンダやチャールズ・ブロンソンらを出演させた野心作であり、フランスや日本で成功を収め、アメリカでは公開当時こそヒットしなかったが、1970年代に入って再評価された。その後、長く本格的な監督業から遠ざかっていたが、1984年に10年以上の沈黙を破って、ロバート・デ・ニーロ主演のギャング映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を公開した。長大なオリジナル版は難色を示され、アメリカなど多くの国では短縮版が公開されて酷評されたが、日本やヨーロッパの一部ではオリジナル版が高く評価された。のちに完全版が公開され、ギャング映画の古典として評価を確立した。

遠近の使い分けによる、顔のクローズアップと遠景を織り込んだ緻密な画面構成を特徴とし、作曲家エンニオ・モリコーネとは、小学校の同級生で、『荒野の用心棒』から遺作の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』まで組んだ。次回作として、レニングラード包囲戦を描く戦争映画の脚本を書いている最中に、過労による心臓発作で、1989年4月30日に60歳で亡くなった。以前から肥満による健康問題に悩まされていたことも、発作の原因と考えられている。

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