伝記
ピウス1世は、2世紀半ばにローマ教皇の座にあったとされる人物である。生年は不明で、在位は142年頃から155年頃とするのが一般的だが、年代は揺れ、140年頃から154年頃に在位したともいわれ、就任を142年か146年、没年を157年か161年とする説もある。名の「ピウス」はラテン語で「敬虔な人」を意味し、彼のあと教皇名として好んで使われるようになった。カトリック教会と正教会の聖人であるが、カトリック教会が彼を初期のローマ教皇の一人とみなすのに対し、正教会はローマ主教とみなしている。彼について確かなことはほとんど知られていない。
『教皇の書』は、彼が北イタリアのアクイレイアで、ルフィヌスという者の子として生まれたと記す。しかし、これは、アクイレイアのルフィヌスの名を聞いていた著者による単なる推測である可能性が高いとされ、イリュリア人だったとする伝えもある。2世紀のムラトリ断片や『リベリウス目録』によると、彼は教父たちの著作の中で最も広く読まれた『ヘルマスの牧者』を書いた、ヘルマスの兄弟である。ヘルマスは自らを元奴隷と述べており、ここから兄弟が解放奴隷だったのではとも考えられるが、これは低い身分の平民の家の出を意味するだけかもしれず、ヘルマスの語る身の上は文学上の手法とみるべきだともいわれる。新しい宗教とどう出会ったかは不明で、兄弟とともに来たローマで、キリスト教に触れたのかもしれない。
聖職者としての経歴は分かっていないが、前任のヒギヌスの死後、3日間の断食と祈りの末に教皇に推されたと伝わる。エイレナイオスの最古の教皇一覧では、ペトロから数えて9代目の後継者、つまり10人目の教皇にあたる。在位中はグノーシス派の思想が広がった時期で、すでに前任の時代にケルドンとウァレンティノスによって持ち込まれており、そこへポントス出身のマルキオンが加わった。マルキオンは神の唯一性や旧約聖書、キリストの神性と人性の二重性に異を唱え、彼の説は異端として断罪され、144年頃、おそらく彼が主宰した教会会議で教会から除かれたとされる。ほかの2人も破門したとみられている。この知的な闘いでは、弁証家のナブルスのユスティノスが助けとなり、ローマでキリスト教の教えを説いた。
ユダヤ教の諸派からキリスト教へ改宗した者を、共同体が受け入れて洗礼を授けるよう定めたとも伝わる。復活祭を3月の満月の後の最初の日曜日に祝うと定めて、ユダヤ教の過越祭と区別したともされ、この日付は後に西方教会と東方教会の争いの種となった。後世の伝承は、彼が姉妹の名を冠したプデンティアナ教会とプラクセディス教会を創建したと語るが、これらの教会が生まれたのは後の時代であり、伝説を証拠にはできない。ただ、コンスタンティヌス帝の時代より前に信徒が集った信者の家を、後に教会が引き継いだ可能性はあるという。『教皇の書』は彼が編纂を命じたと伝えるが、その作成は実際にはずっと後に始まる。彼の名で伝わるウィエンナの司教ユストゥスへの2通の書簡も真作ではない。殉教したとする伝承もあるが、寛容な皇帝アントニヌス・ピウスの治世にはキリスト教徒への迫害がなかったため、裏づけは十分でない。
同じ年に亡くなった人物
- ポリュカルポス (155年没)
同じ地域に関係する人物
- Princess Maria Antonia of Parma (1841年没)
- レオ13世 (ローマ教皇) (1903年没)
- セルギウス1世 (ローマ教皇) (701年没)
- リッカルド・モランディ (1989年没)
- ベネデット・ルティ (1724年没)