HISTORICAL PERSON · 1989年没

シルヴァーナ・マンガーノ

イタリアの女優。1948年に『にがい米』に主演して強烈な魅力で一躍スターとなり、後にヴィスコンティ監督やパゾリーニ監督の作品にも出演した。

生涯
1989年没
死亡地
スペイン王国(マドリード州 / マドリード)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
スペイン王国(マドリード州)

伝記

シルヴァーナ・マンガーノは、1930年4月(21日または23日とされる)にローマで生まれたイタリアの女優である。父はシチリアの出身で、鉄道員とも伝えられ、母はイギリス人であった。7歳から13歳までジア・ルースカヤの舞踏研究所でバレエを習った。16歳でミス・ローマに選ばれたのがきっかけで、1946年に端役で映画にデビューした。ミス・イタリアの選考にも参加し、優勝したのはルチア・ボゼであったが、ジーナ・ロロブリジーダらとの出会いがあり、彼女たちとは、生涯にわたる友人となった。映画実験センターに入学して、本格的に演技を学んだ。演劇の朗読の課程で、マルチェロ・マストロヤンニと知り合い、彼が最初の恋人であったという。

1948年にジュゼッペ・デ・サンティス監督に見出され、『にがい米』に主演した。多数の少女がテストに来る中で、化粧が濃く派手な服装のマンガーノは選ばれなかったが、のちにローマの街を雨に濡れて、化粧もせずに歩いていたところで監督と再会し、素朴な姿が印象に残って、二度目のテストで主役を得た。当時としては強烈なセックス・アピールで、一躍スターとなり、日本では「原爆女優」と呼ばれた。撮影現場で、のちの夫となる映画プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティスと知り合った。映画はポルトガルの検閲では上映を禁じられたが、世界的な成功を収めた。畑仕事の農婦の、尊大で気だるい姿で、黒い靴下を腿の半ばまで上げた姿は、イタリア映画を象徴する像となった。続いて1949年に『シーラ山の狼』、1950年に『紅薔薇は山に散る』に主演した。アメリカの批評家はリタ・ヘイワースと比べ、ハリウッドから誘いが来たが、断った。1949年にデ・ラウレンティスと結婚し、4人の子をもうけ、その中には、のちに映画プロデューサーとなる娘のラファエラがいた。

結婚後は、夫が彼女の経歴を慎重に運び、脚本を選んで、心理的に複雑な人物を演じさせた。ナイトクラブの踊り子が修道女になる『アンナ』(1951年)、デ・シーカ監督の『ナポリの黄金』(1954年)の娼婦、『マンボ』(1954年)などに出演した。『ユリシーズ』(1954年)ではペネロペとキルケの二役を演じ、国際的な映画女優となった。1958年の『海の壁』では、ルネ・クレマン監督の下で、アンソニー・パーキンスと共演した。1950年代の終わりには、『戦争・はだかの兵隊』(1959年)などの喜劇でも才能を見せた。1960年にフェリーニから『甘い生活』への出演を持ちかけられたが、夫が嫉妬から断らせたという。『五人の札つき娘』(1960年)では、ナチスと戦う女性を演じ、長い髪を剃り落として、アメリカの雑誌の表紙を飾った。グラマー女優としてのキャリアを続けたが、1967年の『華やかな魔女たち』が転機となり、ルキノ・ヴィスコンティ監督やピエル・パオロ・パゾリーニ監督の作品では、貴族やブルジョワの中年女性を演じるようになった。出演作には『ベニスに死す』『ルートヴィヒ』『家族の肖像』『デューン/砂の惑星』『黒い瞳』などがある。1989年12月16日に、癌のためマドリードで亡くなった。

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