伝記
グスタボ・アドルフォ・ベッケルは、1836年2月17日にセビリアで生まれ、1870年12月22日にマドリードで没したスペインの詩人、散文作家である。本名はグスタボ・アドルフォ・クラウディオ・ドミンゲス・バスティーダという。抒情詩に優れ、スペインの国民的詩人とされる。健康と家庭に恵まれず、不遇の生涯を送った末に夭折し、死後に唯一の詩集『抒情詩集』が遺された。
父は著名な風俗画家ホセ・ドミンゲス・ベッケルで、ベッケルの姓は父が家系の由来をたどって署名に用いたものである。8人兄弟の5番目として生まれ、5歳で父を、10歳で母を失った。10歳で海員学校の寄宿生となり、同じく父を亡くした生涯の友ナルシソ・カンピーリョと出会ったが、学校は1847年に王命で閉鎖された。兄弟は母方の伯母に引き取られ、彼はバルトロメ・エステバン・ムリーリョのアトリエなどで修行して、当初は画家を目指した。一方で読書に耽るようになり、17歳でマドリードの雑誌に詩が掲載されて、やがて文学を志した。この時期に最初の恋人フリア・カブレラとの出会いと別れを経験している。
1854年、18歳で首都マドリードに移り、下級公務員、書記、記者などの職を転々としながら執筆を続けたが、世に認められず生活は苦しかった。1857年に『スペイン教会堂史』第1巻を発表したが、以後は中断した。1860年、結核の療養中に主治医の娘カスタと出会い、翌年5月に結婚したが、性格の不一致などで結婚生活は円満ではなかった。このころから自由主義穏健派の新聞「エル・コンテンポラネオ」の編集に関わり、1861年から1863年にかけて自作の詩を同紙に掲載した。これらは死後に『抒情詩集』『伝説集』に収録される。療養先のベルエラ修道院で書かれた詩的書簡は1864年に同紙に掲載され、『わが僧坊より』としてまとめられた。
同紙を通じて自由主義穏健派の重鎮ゴンサーレス・ブラボの知遇を得た。ブラボは理解者となり、内務大臣に就任すると、1865年から1868年まで小説検閲官の職を与えて、ベッケルは安定した生活で創作に専念した。詩集の草稿をまとめて出版を依頼し、ブラボの手許に預けたが、1868年のスペイン9月革命でブラボ邸が襲撃され、草稿は失われた。彼はトレドへ1年間赴き、記憶を頼りに草稿を再生して、「すずめの本」としてまとめ上げた。
1870年1月に文芸雑誌「マドリッド画報」の編集長に就任し、マドリードやトレドの取材記などを書いたが、同年の年末に肺炎のため34歳で死去した。友人たちが遺稿を整理し、翌1871年に『抒情詩集』と『伝説集』を収めた『ベッケル作品集』全2巻が刊行された。ハイネなどドイツ抒情詩の影響をいわれたが、派手な修辞を取り除いた簡素な詩形と哀愁に満ちた主観主義は独自のものとされ、スペイン近代詩の源流、スペイン・ロマン主義の最高傑作としてヒメネスら後世の詩人に影響を与えた。スペイン各地の伝説や東洋の伝承に題を取った幻想的短編集『伝説集』は、「オルガン弾きペレス」などを含み、第一級の詩的散文と評価される。1965年から1970年まで発行された100ペセタ紙幣に肖像が使われた。
同じ年に亡くなった人物
- Johann Heinrich Blasius (1870年没)
- シャルル・ジョゼフ・ミナール (1870年没)
- Josephine Fodor (1870年没)
- シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ (1870年没)
- サヴェリオ・メルカダンテ (1870年没)
同じ地域に関係する人物
- フルベール・ユールー (1972年没)
- ギリェン・デ・カストロ (1631年没)
- ハイメ・ラスカーノ (1983年没)
- ペドロ・デ・フェリペ (2016年没)
- エンリケ・ペレス・ディアス (2021年没)