HISTORICAL PERSON · 1989年没

ウラディミール・ホロヴィッツ

ロシア帝国のキエフ生まれのアメリカのクラシックピアニスト。卓越した技巧と独特の音色で知られ、史上最も偉大なピアニストの一人とみなされた。義父は指揮者トスカニーニ。

生涯
1989年没
死亡地
アメリカ合衆国(ニューヨーク州 / ニューヨーク)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ニューヨーク州)

伝記

ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツは、1903年10月1日、ロシア帝国のキエフ(現在のウクライナ)に生まれたアメリカのピアニストである。史上最も偉大なピアニストの一人とされ、卓越した技巧と独特の音色で知られた。出生地については、隣の州の小都市とする説もあるが、出生証明書はキエフを示している。ユダヤ系の父は、軍隊で息子の手が傷つくことを恐れ、徴兵を逃れられるよう、生まれ年を1年遅らせて1904年と申告した。そのため1904年を生年とする文献もあるが、権威筋は1903年を正しいとしている。義父は、名指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニである。

幼いころから、アマチュアのピアニストだった母に手ほどきを受け、1912年にキエフ音楽院に入学し、1919年に卒業した。卒業時にはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番を演奏している。翌1920年には初のリサイタルを開き、ソ連国内のツアーを始めて、ヴァイオリニストのナタン・ミルシテインともたびたび共演した。1926年にベルリンで初の国外コンサートを開き、このとき舞台名をロシア語風の綴りから、西欧風の綴りに改めた。続いてパリとロンドンで演奏した。1928年のアメリカデビューでは、指揮者トーマス・ビーチャムとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏した。テンポをめぐる意見が合わないまま演奏が始まったが、聴衆の反応を見て、このままでは失敗すると判断し、次第にテンポを上げてオーケストラをリードした。最終楽章のコーダは圧倒的な加速で弾ききり、割れんばかりの喝采を浴びて、翌日の新聞は、奇跡的なピアニストの登場を大々的に報じた。

同年に、RCAと契約して録音を始めた。リストのロ短調ソナタや、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時は珍しいレパートリーを録音し、今も最高の演奏と評価する声が多い。1932年にトスカニーニとベートーヴェンの『皇帝』で初共演し、のちにその娘と結婚した。1940年に米国に居を構え、1944年に市民権を得た。健康上の理由などから、公の活動を退くことがたびたびあった。1953年のアメリカデビュー25周年記念のリサイタルのあと、突然すべてのリサイタルを取り消し、1965年まで12年間、コンサートを行わなかった。12年ぶりのリサイタルは「ヒストリック・リターン」として知られ、ホロヴィッツ健在を世に知らしめた。1970年代後半にはRCAに戻り、ライブ録音を残した。1983年の初来日のときは、「ひび割れた骨董」と評されたが、伝記によると、処方された薬の影響が大きかったとされる。

1985年にドイツ・グラモフォンと専属契約を結び、再び録音を始めた。極度の技巧を要する曲に固執するのをやめ、最弱音から最強音まで完璧に制御された強弱と、独特のタッチやペダルの使い分けで、色彩豊かな音で聴衆を魅了し続けた。1986年には、約60年ぶりの祖国であるモスクワと、ベルリンで演奏会を開いて絶賛され、同年、日本も再訪した。指を伸ばして弾く独特の奏法で、不必要にペダルを使わずに音を明確に分け、和音を濁らせることがなかった。最後の録音となった小品集を終えた4日後の1989年11月5日、自宅で食事中に急逝した。遺体は、ミラノにある義父トスカニーニの霊廟に、ともに埋葬された。

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