伝記
ジョージ・ウェルズ・ビードルは、1903年10月22日に生まれ、1989年6月9日に没したアメリカ合衆国の遺伝学者である。遺伝子が細胞内の生化学的な過程を制御していることを発見し、エドワード・ローリー・タータムとともに、1958年のノーベル生理学・医学賞の半分を受けた。1961年から1968年まで、シカゴ大学の第7代学長を務めた。
ネブラスカ州ワフーで、近くで農場を営む父チョーンシー・エルマー・ビードルと母ハティ・アルブロの間に生まれた。地元の高校の教師が科学へ導いて、リンカーンの農学部に進むよう説得しなければ、自身も農民になっていたかもしれない。1926年にネブラスカ大学で農学の学位を得て、1年間、交雑小麦を研究していたキーム教授のもとで働き、1927年に修士号を得た。キーム教授の世話で、コーネル大学の教育助手の職を得て、1931年までR・A・エマーソンらのもとで、トウモロコシのメンデル遺伝の研究を行った。初めは生態学を専攻したが、すぐに遺伝学と細胞学に変え、バーバラ・マクリントックの下でも研究して、1931年に博士号を取得した。
1931年からカリフォルニア工科大学の研究員となり、1936年までとどまった。この間にトウモロコシの研究を続けるとともに、アルフレッド・スターティヴァントらと、ショウジョウバエの交差の研究を始めた。ハエの幼虫に外来細胞を移植して腹部に第三の目を作らせる技術を開発し、目の色を変える変異体は、色素を作る代謝過程に関わる遺伝子が変異していることを明らかにした。1935年には6か月パリに滞在し、ボリス・エフルッシとハエの目の色素の発達を研究した。これがのちの、アカパンカビの遺伝子の生化学的な研究につながった。1936年にハーバード大学の遺伝学の助教授となり、翌年スタンフォード大学の生物学の教授に任じられ、9年間とどまって、その大半をタータムとの共同研究に費やした。
ビードルとタータムは、生化学、遺伝学の実験により適したモデル生物として、アカパンカビを選んだ。X線を照射して突然変異を起こさせ、その中から、代謝の経路上の特定の酵素が変異しているものを探した。アミノ酸やビタミンなどの栄養要求性変異株を作り、個々の遺伝子変異が、代謝や物質生産の過程の個々の段階に関わっていることを明らかにした。1941年の最初の報告以来、この方法で一連の変異株を作り、いくつもの代謝経路でアミノ酸などが合成される順序を決めた。そこから、1つの遺伝子は複雑な表現型ではなく、1つの特異的な酵素だけを規定するという「一遺伝子一酵素説」が生まれた。当時、遺伝学者以外の多くは、遺伝子が支配するのは目の色などの些細な性質だけだと考えていた。二人の研究は分子遺伝学に新たな道を開き、遺伝学の理解に根本的な革命をもたらした。
1946年、ライナス・ポーリングの紹介で、新設されるカリフォルニア工科大学の生物学部門の責任者となった。冷戦の初期には、共産主義に懐疑的で、核兵器による放射能の危険性に警鐘を鳴らした。1961年1月にシカゴ大学の総長に選ばれ、同年秋に学長となり、トップクラスの大学という評価を再構築した。退任後は研究に戻り、トウモロコシとブタモロコシの交雑を研究し、進化学的な関係を調べた。しかし1970年代後半にアルツハイマー病にかかり、自分の手で実験を続けるのは困難となった。前妻との間に、1931年生まれの一人息子デイビッドがいる。1950年にアルバート・ラスカー基礎医学研究賞を、1958年にメンデル・メダルを受けた。
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