HISTORICAL PERSON · 1989年没

ベティ・デイヴィス

アメリカの女優。ワーナー・ブラザースの専属となって大スターの地位を築き、ハリウッド屈指の演技派として「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた。

生涯
1989年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / ヌイイ=シュル=セーヌ)
出生地
アメリカ合衆国(ローウェル)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ベティ・デイヴィスは、本名をルース・エリザベス・デイヴィスといい、1908年4月5日にマサチューセッツ州ローウェルで生まれた、アメリカ合衆国の女優である。キャサリン・ヘプバーンと並ぶ、ハリウッド映画史上屈指の演技派女優で、尊敬をこめて「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた。弁護士の父を持ち、裕福な幼少期を過ごしたが、幼いころに両親が離婚した。典型的なステージ・ママである母や、姉の影響から離れなければならなかった。ニューヨークに移り、ニュートン・ハイスクールとクッシング・アカデミーで演技とダンスも学んだ。最初はダンサーに憧れていたが、高校時代にダンスをやめて俳優を目指した。1928年に巡業劇団の舞台に立ってニューヨークに進出し、1929年にブロードウェイの舞台でデビューした。舞台の主演女優として順調に経歴を重ねたが、サミュエル・ゴールドウィンのスクリーン・テストは不合格となり、のちにゴールドウィンは、彼女を雇わなかったのは最大の誤算だったと述べた。

1931年にユニヴァーサル映画に雇われてスクリーン・デビューしたが、作品に恵まれず、幹部から「スターの素質はない」として解雇された。その後ワーナー・ブラザースと7年の専属契約を結び、1932年の主演作で注目された。1949年まで続くワーナーとの契約の間に、大スターの地位を築き上げた。転機は1934年に訪れた。ワーナーでは便利使いのヒロインや準ヒロインの役に甘んじていたが、サマセット・モームの『人間の絆』の映画化『痴人の愛』と出会った。ヒロインのミルドレッドは、それまでの英米文学で描かれることのない悪辣な女性像で、引き受ける女優がなかったが、デイヴィスは、これを転機と見定め、自ら志願した。専属契約をしていたワーナーは、他社であるRKOの作品への出演を認めなかったが、彼女はこれに対抗し、意志を貫いた。公開されると、憎らしいまでの強烈な存在感と悪女ぶりが大評判になった。しかし他社の映画で評判を取ったため、ワーナーのボスのジャック・ワーナーが露骨に彼女を締め出しにかかり、デイヴィスはアカデミー賞にノミネートされなかった。これに対し、ファンや評論家の抗議が殺到し、アカデミーは緊急措置をとる羽目になったが、受賞はならなかった。この出来事は、のちに「オスカー史上の最も大きな過ち」と呼ばれた。

翌年、『青春の抗議』でアカデミー主演女優賞を獲得したが、本人は不本意だった。前年に受賞できなかったことの「同情的な埋め合わせのオスカー」であることが明らかだとして、「今年は私ではなく、キャサリン・ヘプバーンが本当の受賞者」と率直に語った。1938年の『黒蘭の女』でも同賞を得た。1938年から1942年まで、主演の演技部門で5年連続でアカデミー賞にノミネートされたのは、アカデミー賞史上空前の記録である。1941年10月には、米国映画芸術科学アカデミーに、女性として初めて会長に就任したが、事務局と対立して、2か月後に退任した。1949年にワーナーを離れ、1950年の『イヴの総て』では、ブロードウェイの大女優マーゴ・チャニングを演じ、カンヌ国際映画祭の女優賞などを獲得した。1962年には、ジョーン・クロフォードと共演した『何がジェーンに起ったか?』で、強烈な役を、あえて醜悪なメイクで見事に創り上げ、復活を強く印象づけた。1987年の『八月の鯨』では、リリアン・ギッシュと姉妹役で共演して、世界中で高い評価を得た。1989年10月6日、フランスのパリ近郊の病院で、転移性乳癌のため81歳で死去した。

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