HISTORICAL PERSON · 1997年没

ブラート・オクジャワ

ソ連とロシアの詩人、歌手、小説家。約200曲を遺し、ギター弾き語りの「作者の唄」というジャンルを確立した一人で、政治を題材にせずに国民的な人気を得た。

生涯
1997年没
死亡地
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県 / クラマール)
出生地
ロシア連邦(モスクワ)
出典
世界地図
フランス共和国(オー=ド=セーヌ県)

伝記

ブラート・オクジャワは、1924年5月9日にモスクワで生まれた、ソ連・ロシアの詩人、歌手、小説家である。父はグルジア系、母はアルメニア系で、両親は共産党の仕事や学業のためにトビリシからモスクワへ出てきた共産主義者だった。名のブラートはトルコ起源でダマスカス鋼を意味する。母は有名なアルメニアの詩人の姪にあたり、父はロシア内戦で政治委員を務めたのち、共産党の高位の党員となっていた。ところが1937年2月、大粛清のなかで父はトロツキズムの嫌疑をかけられて逮捕され、同年8月に二人の兄弟とともに銃殺された。母も1939年に反ソ的行為を理由に逮捕されて収容所に送られ、ブラートはトビリシの親戚のもとで暮らすことになった。母は1946年に釈放されたが、1949年に再び逮捕されて5年間を収容所で過ごし、1954年に完全に釈放され、1956年に夫とともに名誉を回復された。

1941年、17歳で学校を卒業する前にみずから志願して赤軍の歩兵となり、1942年からナチス・ドイツとの戦争に加わった。1944年に除隊してトビリシへ戻り、国立トビリシ大学で学んで1950年に卒業した。その後は教師となり、まずカルーガ州の農村の学校で、のちにカルーガ市で教えた。スターリンの死から3年後の1956年にモスクワへ戻り、両親の名誉回復やフルシチョフによるスターリン批判を経て共産党に入党した(1990年まで党員だった)。出版社で編集者を務め、さらに全国紙『文学新聞』の詩の部門の責任者となった。

1950年代半ばから歌を作り、七弦のロシア・ギターを弾きながら歌い始めた。使うコードはわずかで音楽教育も受けていなかったが、旋律の才にすぐれ、機知に富んだ歌詞と音楽と歌声が見事に溶け合っていたという。友人たちに称賛された歌は素人の録音によって広まり、録音テープが広くコピーされて、ソ連全土やポーランドまで伝わった。ギターを弾きながら歌うフランスのシャンソニエとロシア民謡の影響を受けた独特の様式で、「作者の唄」と呼ばれるジャンルの確立者の一人となり、約200曲を残した。1969年には、その歌が古典的なソ連映画『砂漠の白い太陽』に使われた。ナボコフが小説『アーダ』で彼の『感傷的行進曲』を引用したことも知られる。同様の歌い手たちは、元来ケルトの吟遊詩人を指す語で「バルド」とも呼ばれた。国民的な人気を得ながら政治を題材にすることはなく、それでもソ連の文化政策にそぐわないジャンルだったため、国家に公認されたのは晩年になってからである。1970年代の終わりまでソ連の機関は彼の作品を出版せず、公式に録音が出たのは1980年代になってからだった。詩人を自らの本分と考え、録音は取るに足らないものだと語っていた。

1967年にストルガ詩の夕べ金冠賞を受け、1980年代には小説にも力を注いで、1994年に『シーポフの冒険』でロシア・ブッカー賞を受けた。1991年には国民的詩人としてソ連国家賞を授与された。改革を支持し、1993年10月にはエリツィンを支持する42人の書簡に署名した。1997年6月12日にパリで亡くなり、同年モスクワのヴァガニコヴォ墓地に葬られた。生前住んだモスクワのアルバート通りには記念像が建てられ、小惑星の一つにもその名がつけられている。

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