HISTORICAL PERSON · 1989年没

ニコラエ・チャウシェスク

ルーマニアの政治家。1965年から1989年まで指導者として君臨し、工業化を進めた一方で人権抑圧や個人崇拝を推進。1989年の革命で処刑された。

生涯
1989年没
死亡地
ルーマニア(ドゥンボヴィツァ県 / トゥルゴヴィシュテ)
出生地
ルーマニア(Scornicesti)
出典
世界地図
ルーマニア(ドゥンボヴィツァ県)

伝記

ニコラエ・チャウシェスクは、1918年、ルーマニア王国オルト郡スコルニチェシュティの貧しい農家に、十人兄弟の三男として生まれた。誕生日は公式には1月26日だが、住民登録書の日付は1月23日となっている。父アンドゥルーツァは土地を所有し、羊を数頭飼い、仕立て屋として収入を補った。家は二部屋だけで、家族は主にトウモロコシの粥を食べていた。村の司祭は、父は子供たちに興味を示さず、酒飲みで、よく喧嘩をしたと語っている。母アレクサンドリーナは従順で勤勉な農民であり、敬虔なキリスト教徒だった。小学校には、しばしば裸足で通い、友人がおらず、多感で予測不能な少年だったという。11歳で首都ブカレストに移り、靴職人の見習いとして働いた。技術を教えた人物は能動的な共産党員で、当時、共産党は非合法の組織だった。

1933年11月、共産党の青年組織の一員に加わり、同月、鉄道労働争議を扇動し、共産主義の小冊子を配布した容疑で逮捕された。1934年6月にも、嘆願書の署名を集めた容疑で逮捕され、同年8月までに4回投獄された。秘密警察が作った彼の略歴書類には、「共産主義を扇動する危険人物」と記されていた。1936年6月、ブラショヴの裁判所で懲役2年と、法廷侮辱罪による6か月の追加の懲役を宣告された。投獄された刑務所で、職員から暴力を受け、これ以後、話すときに吃音が出るようになった。ここでゲオルゲ・ゲオルギウ=デジらと出会い、ゲオルギウ=デジからマルクス・レーニン主義の理論を教わった。1938年に仮釈放された。1939年に、化学繊維工場で働いていたレヌーツァ・ペトレスクと出会った。

1940年に再逮捕されて有罪判決を受け、ジラーヴァ刑務所にいた間、歯の治療の許可証を利用して、レヌーツァと面会していた。1943年にはトゥルグ・ジウの収容所に移された。1944年8月23日、ミハイ1世の宮廷クーデターで、アントネスクが逮捕されると、共産主義者たちは釈放された。1947年12月23日に、レヌーツァと結婚し、翌年2月に長男ヴァレンティンが生まれた。戦後、共産党が権力を握ると、ゲオルギウ=デジの指導のもとで出世し、1965年3月にゲオルギウ=デジが死去すると、後継者として書記長に就任した。

前任者の方針を踏襲して、ルーマニアをソ連の影響下から脱却させようとし、外国資本の参入を認めた。ルーマニアは農業国から工業国へと転身した。1966年には、結婚と多産を奨励し、避妊や堕胎、離婚を原則禁止する法令を制定した。権力の座に就いたころは、報道の検閲を緩和し、比較的自由な気風が見られたが、1971年に中国と北朝鮮で強烈な個人崇拝を目の当たりにして、「七月の主張」と呼ばれる政治綱領を発表し、自由主義的な政策を終わらせた。1970年代の石油危機以後、対外債務が増え、返済のため輸出を増やしたことで、国内は慢性的な物資不足に陥った。1989年4月に債務を完済したと発表した。同年12月、ティミショアラの抗議運動が革命に発展し、12月22日、妻エレナとヘリコプターで逃亡したが、トゥルゴヴィシュテで軍隊に捕らえられた。夫妻は裁判にかけられ、死刑を宣告されて、12月25日に銃殺された。

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