HISTORICAL PERSON · 1989年没

エレナ・チャウシェスク

ルーマニアの共産政治家。ニコラエ・チャウシェスクの妻で「国民の母」と呼ばれ権勢を振るったが、1989年の革命で夫とともに捕らえられた。

生涯
1989年没
死亡地
ルーマニア(ドゥンボヴィツァ県 / トゥルゴヴィシュテ)
出生地
ルーマニア(Petresti)
出典
世界地図
ルーマニア(ドゥンボヴィツァ県)

伝記

エレナ・チャウシェスクは、1916年1月7日、ルーマニア王国ワラキア地方のドゥンボヴィツァ郡ペトレシュティの農家に、父ナエ・ペトレスクと母アレクサンドリーナの子として生まれた。出生証明書の名はレヌーツァ・ペトレスクである。小学校を卒業できず、満足な教育を受けられなかったが、音楽、体操、裁縫では優秀だったという。兄のゲオルゲとともに首都ブカレストに移り、薬の実験室で製造助手として働き、のちに化学繊維工場で裁縫師の職を得た。1937年にルーマニア共産党に入党し、1939年、当時21歳だったニコラエ・チャウシェスクと出会った。伝えられるところでは、ニコラエは一目で魅了されたが、彼がたびたび刑務所に入ったため、二人の関係はなかなか進まなかった。1947年12月23日に結婚し、のちに自身の名を「エレナ」に改めた。

1945年に共産党から外務省に派遣されて秘書官として働いたが、「無能」と判断されて解雇された。同僚は、彼女は新聞の発行元の区別もつかず、英語とフランス語を混ぜて使っていたと回想している。1950年には、自分は出産で苦労し、怠惰になった時期もあって、仕事への意欲も湧かなかったと書き残している。1965年3月にゲオルギウ=デジが肺癌で亡くなり、ニコラエが共産党書記長に就任して権力を掌握すると、夫の外国訪問に公式に同行するようになった。1971年6月に夫婦で中華人民共和国を訪問し、毛沢東と江青と会談した際、江青がどのように権力の座を維持しているかに着目し、これに触発されて、自身の政治的台頭を画策し始めたと考えられている。

1971年7月のニコラエの演説のあと、社会経済予測中央委員会の委員に選ばれた。1972年7月に党中央委員会委員に、1973年6月に党中央委員会の政治局員に選ばれ、夫に次ぐ影響力を持つ人物となった。1974年11月の第11回党大会で政治執行委員会委員に、1977年1月には常設局委員に選ばれた。1975年3月に国の立法府の大国民議会の選挙で当選し、1989年に死亡するまで、ピテシュティの議席を保持した。1980年3月には、ニコラエから閣僚評議会の第一副議長に任命された。化学研究所の所長を7年間務め、1974年にはルーマニア科学協会の正会員に選ばれた。しかし、彼女の名義で発表された多くの論文について、書くよう強要されたと主張する科学者が、のちに複数現れた。

1980年代以降は、「国民の母」と呼ばれ、夫とともに強烈な個人崇拝の対象となった。国営放送は、彼女の横顔を決して映さないよう厳命されていた。1987年6月13日には、ブカレストの「聖金曜日・ヘラスカ教会」を解体するよう命じ、翌月に教会は取り壊された。1989年12月22日、革命が起こると、夫とともにヘリコプターで逃亡を図り、トゥルゴヴィシュテで軍隊に拘束された。国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行への秘密口座の開設などの容疑で起訴され、略式の軍事法廷で死刑を宣告された。1989年12月25日14時50分、ニコラエとともに銃殺され、判決から10分以内に執行された。夫婦の間には、長男ヴァレンティン、長女ゾヤ、次男ニクが生まれた。

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