伝記
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、1908年4月5日、オーストリア=ハンガリー帝国のザルツブルクに、騎士の子として生まれた指揮者である。兄も後に音楽家になった。先祖は、東ローマ帝国に仕えたギリシャ人の家系といわれ、高祖父はギリシャのコザニに生まれ、のちにザクセンに定住し、一族は服飾産業で成功して、1792年に爵位と貴族の称号「フォン」を受けた。母方はスロヴェニア人の家系である。カラヤン自身は、自らがオーストリア人であることを強く自認していた。1919年に貴族制度が廃止されると、公式の名からは「騎士」と「フォン」が外されたが、芸術活動では出生名にこだわり、「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の芸名を認めさせた。
ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院とウィーン音楽院で学び、親が買い上げた楽団でデビューした。ドイツのウルム市立歌劇場から誘われ、1929年に『フィガロの結婚』でオペラ指揮者として脚光を浴びた。1933年にナチスに入党の手続きをとったとされる。後年、「私にとってナチス党員になることは、スキークラブの会員になる程度の感覚だった」と述べている。1938年のベルリン国立歌劇場でのワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の指揮は、評論で「奇跡のカラヤン」と称賛された。この評論の実際の著者は、フルトヴェングラーを犠牲にしてカラヤンのキャリアを促そうとした総監督のティーティエンだったともされる。翌1939年に同歌劇場と管弦楽団の指揮者の地位を得た。1946年には、ウィーン・フィルとの戦後初の演奏会の後、戦時中のナチスの党員であったことを理由に、ソ連の占領軍によって公開演奏の停止処分を受けたが、翌1947年に処分は保留となった。
1948年にウィーン交響楽団の首席指揮者、1949年にウィーン楽友協会の音楽監督に就任した。イギリスのレコード会社の録音プロデューサー、ウォルター・レッグのもとで、フィルハーモニア管弦楽団との演奏と録音を盛んに行った。1951年にはバイロイト音楽祭の主要な指揮者に抜擢されたが、翌年、演出をめぐってヴィーラント・ワーグナーと対立した。1954年11月、フルトヴェングラーが急逝すると、翌1955年にフルトヴェングラーとベルリン・フィルのアメリカ演奏旅行の代役を果たして成功し、この旅行中にベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任して、1989年まで34年間、その地位にあった。1956年にはウィーン国立歌劇場の芸術監督にも就任した。世界の人気を二分する両楽団を同時に束ねたことで、このころから「帝王」と呼ばれはじめた。1957年にはベルリン・フィルと初の日本演奏旅行を行った。
1964年に総支配人との対立でウィーンの歌劇場を辞した。1967年には、自らの理想に沿ったワーグナーの上演をめざして、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設した。1972年には、ベルリン・フィル団員の養成を目的とした、カラヤン・アカデミーを創設した。1982年には映像制作会社を設立し、主要なレパートリーの映像化にも着手した。1983年にクラリネット奏者の入団をめぐってベルリン・フィルと対立したが、翌年和解した。1988年にはドイツの雑誌が「お金の魔術師」と題して批判の特集記事を組み、ベルリン・フィルや議会野党からも、退任を求める声が高まった。1989年4月24日、健康上の理由でベルリン・フィルの芸術監督と終身指揮者を辞任した。同年7月16日、自宅で突然ぐったりとなり、心肺停止の状態になって、そのまま亡くなった。82歳だった。生涯に12回の大手術を受けた。
同じ年に亡くなった人物
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- ガイ・ウィリアムズ (1989年没)
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- クリスティーン・ジョーゲンセン (1989年没)
- マリオン・マック (1989年没)
同じ地域に関係する人物
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- リダ・バーロヴァ (2000年没)
- ペーター・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=トスカーナ (1948年没)
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- ジャン・アメリー (1978年没)