伝記
プリーモ・レーヴィは、1919年7月31日、トリノのユダヤ人家庭に生まれたイタリアの化学者であり、作家である。家は自由主義的なユダヤ人の家で、先祖は1492年の追放でスペインから来たピエモンテのユダヤ人だった。父チェーザレは製造会社に勤め、仕事で外国にいることが多く、よく本を読む独学の人だった。母エステリーナ、通称リーナは、教養があり、ピアノを弾き、フランス語を流暢に話した。1921年に妹アンナ・マリアが生まれ、生涯親しかった。やせて繊細な子で、内気で、自分を醜いと思っていたが、学業は優れていた。病気のために、長く学校を休み、家庭教師について学ぶこともあった。1930年には、普通より1年早く中学校に入った。クラスで最年少で、最も背が低く、最も頭がよく、ただ一人のユダヤ人だった。1932年8月には、バル・ミツバの儀式で、地元のシナゴーグで歌った。
1934年、15歳で古典に力を入れるダゼリオ高校に入った。この学校には、反ファシズムの教師が多く、哲学者のノルベルト・ボッビオや、のちに小説家となるチェーザレ・パヴェーゼもいた。イギリスの科学者ブラッグの本を読んで、化学者になろうと決めたという。1937年からトリノ大学で化学を学んだ。1938年には、イタリアで人種法が成立した。第二次世界大戦中は、ナチスによるトリノ占領に対して、レジスタンス活動を行った。1943年12月13日、スイスとの国境沿いの山中、アオスタ渓谷で捕らえられた。ユダヤ人であると認めたところ、その場で殺されず、1944年2月22日に、アウシュヴィッツに収容された。
強制労働を主な目的とした第三収容所のモノヴィッツに建設された、イーゲー・ファルベン社の合成ゴム工場「ブナ」に、化学技術者として配属された。このことが彼の生還に寄与した。1945年1月27日にアウシュヴィッツが解放され、イタリアへ帰還した。戦後は化学者、技師として働きながら、1947年の『これが人間か』をはじめ、『休戦』『溺れるものと救われるもの』などで、アウシュヴィッツでの体験をテーマとして描いた。『溺れるものと救われるもの』では、「灰色の領域」という概念を論じた。『これが人間か』は、『アンネの日記』『夜と霧』と並ぶ、アウシュヴィッツの古典的な記録文学と評価されている。一方で、化学の元素の名を各章の題にした『周期律』(1975年)や、幻想小説も発表した。1979年には、『星型レンチ』でストレーガ賞を受賞し、イタリアを代表する作家となった。
イスラエルのパレスチナ占領政策に反対を表明し、特に1982年6月のレバノン侵攻では、イスラエル軍が現地民兵によるパレスチナ難民の虐殺を放置したことに抗議するなど、ユダヤ人社会で物議を醸す言動もあった。ナチスによる絶滅収容所政策を、「ホロコースト」と呼ぶことには反対した。1987年4月11日、自宅アパートの階段から転落して死亡した。公式には自殺とされたが、事故だったと主張する友人たちもいる。遺書などの確かな証拠はない。墓碑には、名前と生没年のほかに、アウシュヴィッツでの囚人番号「174517」が刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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