HISTORICAL PERSON · 1987年没

ピーター・メダワー

移植組織への免疫系の研究で知られ、後天性の免疫寛容を発見して1960年にノーベル生理学・医学賞を受賞したイギリスの生物学者。

生涯
1987年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
ブラジル連邦共和国(ペトロポリス)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ピーター・ブライアン・メダワーは、1915年2月28日にブラジルのリオデジャネイロ、あるいは北のペトロポリスで生まれた生物学者である。イギリス人の母エディス・ミュリエルと、レバノン生まれでイギリスに帰化した父ニコラスの間の、3人きょうだいの末っ子で、兄フィリップと姉パメラがいた。父はレバノンのマロン派の血筋で、英国の歯科用品メーカーの代理人としてブラジルに派遣され、本人は父の仕事を「南米で入れ歯を売ること」と述べている。出生は英国領事館に届けられ、生まれながらのイギリス臣民の資格を得た。一方、ブラジルで生まれたため、ブラジルの国籍も持っており、18歳で徴兵の対象となる年齢になると、免除を申請したが認められず、ブラジル国籍を放棄した。幼い時期に家族とイギリスへ渡り、以後は生涯をイギリスで過ごした。

中等教育は、ウィルトシャーの名門寄宿学校マールバラ・カレッジで受けた。この学校に対しては、おおむね悪い感情を持っていたが、生物学の教師アシュリー・ゴードン・ラウンズには好意を抱いていた。オックスフォード大学マグダレン・カレッジで、ジョン・ヤングの下で動物学を学び、奨学金とフェローの地位を得た。第二次世界大戦中に、皮膚移植の研究から、移植の研究を始めた。のちにレスリー・ブレントや、ルパート・ビリンガムとともに、後天的な免疫寛容の原理を実証した。これは、バーネットが理論的に予測していたものである。1947年から1951年までバーミンガム大学、1951年から1962年までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで、動物学の教授を務めた。1949年に王立協会のフェローに選ばれた。

1960年、臓器移植の基礎となる組織移植の研究と、後天的な免疫寛容の発見によって、バーネットとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。この研究は、火傷の痕に皮膚を移植するときなどに役立っている。免疫学の研究は、完成した免疫の仕組みを扱う立場から、免疫の仕組みそのものを変化させる立場へと変わり、移植された臓器の拒絶を抑える方法につながった。そのため「移植の父」とも呼ばれる。科学の発見を、結果が予想できる「分解的発見」と、予想もつかない画期的な「合成的発見」に分類した。1962年に国立医学研究所の所長になり、1977年から1983年までは王立研究所の実験医学の教授を務め、1981年から1987年には王立医学大学院の総長を務めた。1965年にナイトに叙せられ、1981年にはメリット勲章を受けた。

高い知性と勤勉さ、カリスマ性を備えた、生まれついてのリーダーだった。流暢で明瞭な、機知に富む文章を書き、随筆集や、若い科学者への助言の書、妻のジーンとの共著、最後の著作となった1986年の自叙伝などを残した。ドーキンスは「科学を書く者の中で最も機知に富む」と評した。オペラや哲学、クリケットなど様々なものにも興味を持っていた。1986年、エクセター大聖堂で学術協会の年次の会合で訓話をしている最中に、脳出血で倒れた。話すことも動くこともできなくなったのちも、妻の助けを借りて、叙述や研究を続けたが、さらに脳出血が続き、1987年10月2日に亡くなった。2005年に亡くなった妻と同じイーストサセックス州の墓地に埋葬されている。

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