伝記
ジョン・マーセラス・ヒューストンは、1906年8月5日にミズーリ州で生まれた、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優である。父は俳優のウォルター・ヒューストンで、俳優一家に生まれ、3歳のときから舞台に立った。14歳で学校を中退してボクシングに熱中し、その後はメキシコを放浪して、さまざまな職業に就いた。脚本家としてデビューしたころ、ハリウッドのサンセット大通りを車で走行中に人身事故を起こし、相手を死亡させてしまったことがある。裁判では無罪となったが、ショックでロンドンやパリに引っ越して、放浪の暮らしをした時期があったという。
のちにハリウッドに落ち着いて脚本を書くようになり、『黒蘭の女』(1938年)や『ヨーク軍曹』(1941年)の脚本を手がけて、アカデミー賞にノミネートされる実績を積んだ。1941年に、ダシール・ハメットの小説を映画化した『マルタの鷹』で監督デビューを果たした。この作品は、ハードボイルドやフィルム・ノワールの古典となり、主演のハンフリー・ボガートを人気スターに押し上げた。第二次世界大戦が激化すると、1942年に陸軍に入隊し、通信隊に配属されて、『アリューシャン列島からの報告』など記録映画を4本監督した。
1948年にハリウッドへ戻り、ワーナー・ブラザースのもとで監督した『黄金』と『キー・ラーゴ』が公開された。『黄金』は、その年のワーナー社で最大のヒット作となり、アカデミー監督賞と脚色賞を受賞し、父ウォルターにはアカデミー助演男優賞をもたらした。『キー・ラーゴ』は、クレア・トレヴァーにアカデミー助演女優賞をもたらしたが、ワーナーの無断編集に激怒して決別し、MGMと契約して、強盗映画の草分け的作品『アスファルト・ジャングル』(1950年)を監督した。1951年の『アフリカの女王』は、ボガートとキャサリン・ヘプバーンの共演で大ヒットし、ボガートに初のアカデミー主演男優賞をもたらした。ただ、撮影の現場で映画を放り出して狩猟に没頭してしまうなど、奇想天外なエピソードも残した。当時のハリウッドの赤狩りに嫌気がさして、翌年アイルランドに移住し、『赤い風車』(1952年)を監督して再び大ヒットを記録した。
1956年には、長年映画化を望んでいた『白鯨』が公開された。暗いテーマのため興行的には失敗したが、批評家の評価は高く、のちにスピルバーグの『ジョーズ』が公開されると、再評価された。1958年の『黒船』では日本でロケを行い、1960年の『荒馬と女』では、遺作となったクラーク・ゲーブルと、マリリン・モンローを起用して大ヒットを記録した。俳優としては、1963年の『枢機卿』でゴールデングローブ賞の助演男優賞を受け、1974年の『チャイナタウン』では、映画史に残る悪役を演じた。1985年の『女と男の名誉』では、娘のアンジェリカがアカデミー助演女優賞を受賞し、親子三代でオスカーを受賞し、自身も監督賞にノミネートされて、当時79歳で最高齢の記録を作った。晩年は、遺作となる『ザ・デッド』を、息子トニーの脚本で監督した。長年のヘビースモーカーで、撮影中も酸素吸入器を付けていた。撮影終了後の1987年8月28日に、肺気腫のため81歳で死去した。生涯に5回結婚し、ボガートとは生涯の親友だった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンク・バーディングス (1987年没)
- 中山正敏 (空手家) (1987年没)
- ダニー・ケイ (1987年没)
- リチャード・イーガン (俳優) (1987年没)
- エリザベス・コットン (1987年没)
同じ地域に関係する人物
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- チャールズ・ファイザー (1906年没)
- マーヴィン・バーンズ (2014年没)
- John Pastore (2000年没)
- スティーヴン・ホプキンス (政治家) (1785年没)