伝記
ダニー・ケイは、1911年1月18日、ニューヨークのブルックリンに、本名デーヴィッド・ダニエル・カミンスキーとして生まれた俳優、歌手、コメディアンである。本人は後に1913年生まれと語っていた。両親はジェイコブとクララで、ロシア帝国領のエカテリノスラフ(現在のウクライナのドニプロ)から来たユダヤ系移民だった。3人兄弟の末っ子で、アメリカで生まれたのは彼だけだった。小学校のころから、歌や冗談で同級生を楽しませたが、高校は卒業しなかった。10代の初めに母を亡くし、友人とフロリダまで家出して、彼が歌い、友人がギターを弾いて食いつないだこともあった。戻ってきた父は、学校や仕事に戻るよう強いず、息子が自分の能力を見つけるまま見守った。幼いころは外科医になりたかったが、家に学費がなかったと、本人は語っている。
学校を離れてからは、ソーダ水売りや自動車保険の調査員、事務員を転々とし、ほとんどはクビになった。ある歯科医の事務所で留守番をしていたとき、診療用ドリルで事務所の木工をいじっているところを見つかって解雇された。1939年にその歯科医の娘で、作詞作曲家のシルヴィア・ファインとオーディションで出会い、翌1940年に駆け落ち結婚した。芸は、10代のころ、カッツキル山地の保養地で、余興の司会役を務めて身につけた。1933年にダンスの出し物の一員となり、「ダニー・ケイ」の芸名を初めて使った。1934年にはショーの一員として、中国と日本へのツアーを行った。大阪公演のとき台風に見舞われて停電し、落ち着きをなくした観客を静めるため、ライトを手に舞台に上がり、知っているかぎりの歌を、声の限りに歌った。言葉の通じない客を楽しませようとして用いたパントマイムや顔芸が、のちの芸風を形づくったと、本人は述べている。
1939年にブロードウェイの『ストロー・ハット・レビュー』でデビューした。この舞台は10週間で閉幕したが、批評家に注目された。1941年のミュージカル『レイディ・イン・ザ・ダーク』(音楽はクルト・ヴァイル、詞はアイラ・ガーシュウィン)に出演し、わずか39秒で50人のロシア人作曲家を早口で暗唱する曲で、大絶賛を浴びた。その才能に注目した映画製作者サミュエル・ゴールドウィンの誘いで映画界に入り、1944年に『ダニー・ケイの新兵さん』で映画デビューを飾った。以降、『虹を掴む男』『ホワイト・クリスマス』『五つの銅貨』など、数々の映画に出演し、独特の早口で歌う様やコミカルな演技で人気を博した。
1954年に国連のユニセフに参加し、以後亡くなるまで親善大使として尽力した。その活動と芸達者ぶりが評価され、同年のアカデミー賞で特別賞を受けた。その後は活躍の舞台をテレビやブロードウェイに移し、1963年から1967年までCBSで放送されたバラエティ『ダニー・ケイ・ショー』で、1963年度のエミー賞を受賞した。度々お忍びで来日し、日本の福祉施設を回ったが、それを表には出さなかった。楽譜は読めなかったが、オーケストラの指揮者としても活動し、1981年9月のニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会は、今も語り継がれている。1977年から1981年まで、野球のマリナーズの共同オーナーも務めた。1987年3月3日、ロサンゼルスで心臓発作により、76歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョイス・ジェイムソン (1987年没)
- ドミトリー・カバレフスキー (1987年没)
- ヨハン・オットー・フォン・スプレッケルセン (1987年没)
- グスタフ・フレーリッヒ (1987年没)
- リー・マーヴィン (1987年没)
同じ地域に関係する人物
- フレッド・アレクサンダー (1969年没)
- ローレンス・ティベット (1960年没)
- ナタリー・ウッド (1981年没)
- クラレンス・ブラウン (1987年没)
- ゲイリー・ライト (2023年没)