伝記
ドミトリー・ボリソヴィチ・カバレフスキーは、1904年12月30日にサンクトペテルブルクで生まれ、1987年2月14日にモスクワで没したロシアの作曲家であり、ピアニスト、著述家である。子供向けに優れた作品を残した現代の作曲家の一人とされる。ソビエト作曲家同盟をモスクワに創設するのに尽力し、ソビエト連邦公認の芸術家として、作曲界で大きな力を持った。
数学者の家庭に生まれた。父は国の保険機関に勤め、文学や絵画、地理、自然科学、技術への興味を早くから伝え、母からは音楽への早い興味を受けたという。父は数学に進むよう励ましたが、早くから芸術に魅了され、詩や絵画を創るかたわら、優秀なピアニストに成長し、のちにサイレント映画の伴奏演奏家を務めるほどだった。1918年に家族でモスクワへ移り、1919年にスクリャービン音楽院の前身にあたる音楽学校でピアノを学び始めた。1922年には、父の求めでエンゲルス研究所に入り、経済と社会の研究に取り組んだが、音楽の勉強も並行して続けた。1925年に父の意に背いてモスクワ音楽院に進み、ニコライ・ミャスコフスキーに作曲を、アレクサンドル・ゴリジェンヴェイゼルにピアノを師事した。同年、学生作曲家創造集団に入会している。
1932年に二つの作曲家団体が解散して、ソビエト作曲家同盟が発足すると、モスクワ支部の創設に積極的に参加し、支部の管理職を務めた。同じ年にモスクワ音楽院の作曲の助教授となり、1939年に正教授になった。1940年に、ソ連共産党に入党し、同年には作曲家同盟の議長に任じられ、1948年まで務めた。第二次世界大戦中は、多くの愛国的な歌曲を創り、戦時中に運営された『ソビエト音楽』誌の編集者も務めた。1948年にアンドレイ・ジダーノフがソビエト音楽の進路について決定を宣言した際、当初は形式主義者の一人として名が挙がったが、当局とのコネのおかげで名前を消してもらえたとされる。ソビエト連邦作曲家同盟の指導的な地位にあったために、要注意人物とされたにすぎないという説もある。スターリン賞を複数回受賞した。
作風は、同時代の人々ほど和声法に冒険的でなく、伝統的な全音階を好み、長短音階の交替や半音階技法を織り交ぜるにとどまった。プロコフィエフとは違い、「社会主義リアリズム」の擁護者だった。戦後の代表作には、青少年向け、児童向けのものが多く、《ヴァイオリン協奏曲》や《チェロ協奏曲第1番》などがある。日本で最も知名度が高いのは《道化師》で、その「ギャロップ」は、しばしば小学校の運動会の音楽に用いられてきた。ピアノ曲では、子供のための小品集や、やさしい変奏曲、ソナチネなど、教育を目的とした作品が多い。ロシアでは歌曲やカンタータ、歌劇の作曲家として名高く、国外では管弦楽曲で知られている。
子供の演奏技術と大人の審美眼との埋め合わせを狙った作品を書いただけでなく、存命中は、25のソ連の学校で音楽教育の実験的なカリキュラムを設定した。自らも暫く7歳児の学級を担当し、注意深く聴き取ることや、自分の印象を言葉にする方法を指導した。音楽教育に関する著作は、1988年にアメリカ合衆国でも出版された。1962年には音楽芸術教育の委員長に、1969年にはソ連邦教育科学アカデミーの芸術教育部門科学委員会の会長に選ばれ、音楽教育国際協会の名誉会長職も受けた。頻繁に外国を訪れ、ソ連平和擁護委員会の会員も務めた。門人に、アメリカ人作曲家のレオ・スミットがいる。1987年にモスクワで世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- イヴ・アレグレ (1987年没)
- エドワード・ランスデール (1987年没)
- チャールズ・マリク (1987年没)
- ウォルター・エイベル (1987年没)
- カミール・シャムーン (1987年没)
同じ地域に関係する人物
- アレクセイ (モスクワ大公) (1676年没)
- Olga Aroseva (2013年没)
- アレクサンダー・アフィノゲーノフ (1941年没)
- フョードル2世 (1605年没)
- グリゴリー・バクラノフ (2009年没)