伝記
アレクセイ・ミハイロヴィチは、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位1645年から1676年)である。1629年3月29日にモスクワで生まれ、父はミハイル・ロマノフ、母はエヴドキヤ・ストレシニョヴァであった。1645年7月12日に父が亡くなると、16歳で即位した。西洋文化に開明的なボヤールのモロゾフから教育を受けた。その治世には、ツァーリ専制体制の確立のほか、ステンカ・ラージンの反乱、ポーランドやスウェーデンとの戦争、古儀式派の分離などが起こった。
治世の初めは、傅育官で義兄でもあるボリス・モロゾフを中心とする顧問団が政治を担った。モロゾフは平和外交を進め、ポーランド・リトアニアと和約を結び、オスマン帝国とも争いを避けた。1648年1月にはアレクセイとマリヤ・ミロスラフスカヤを結婚させ、その10日後には自身もマリヤの妹アンナと結婚している。しかし、塩税などを導入した税制改革に不満を抱いたモスクワの民衆は、腐敗したボヤールとみなしたモロゾフに対して1648年5月に反乱を起こした。アレクセイは彼を追放せざるを得なくなり、これを契機に親政が始まった。モロゾフは4か月後に秘かに帰還し、権力の一部を取り戻した。
1649年の全国会議で制定された会議法典は、都市民と農民の移動の自由を奪い、農奴制を法的に完成させたとされる。教会が新しい領地を持つことも大幅に制限された。貴族会議や全国会議の存在感は薄れ、官庁が増えて官僚制による国政運営が可能になると、ツァーリは旧来の大貴族の影響力を抑え、マトヴェーエフらの側近集団に政権を担わせた。1656年に銀貨から銅貨へ通貨を切り替えると、汚職を誘発して民衆の暴動を招き、アレクセイは苛烈な鎮圧を軍に命じた。1660年代後半にはドン・コサックや逃亡農民を中心とするステンカ・ラージンの乱が起こり、1671年にコサック側の内部分裂で消滅した。
教会では、1653年に総主教ニーコンがロシア正教会の慣習をギリシャ正教会に合わせる改革を始めた。十字を切る指を二本から三本にする変更は大きな反発を招いたが、アレクセイは1658年にニーコンが職を離れるまで支持を続けた。1666年の教会会議でニーコンの追放と、改革への反対者の破門が決まり、分離した一派が古儀式派と呼ばれた。対外関係では、1649年にイングランド王チャールズ1世が処刑されると、アレクセイは怒って国交を断ち、モスクワ会社などのイングランド商人を追放した。1654年にはウクライナ・コサックの首長フメリニツキーと結んでポーランドへ侵攻し、続いてスウェーデンとも戦ったが、1661年の講和条約では占領地を手放した。1667年のアンドルソヴォ条約でポーランドと和平し、ドニエプル川東岸を得て、キエフの獲得は西欧文化への関心を高めた。
マリヤとの間に5男8女をもうけたが、残った男子のフョードルとイヴァンは病弱だった。マリヤが1669年に没すると、1671年にナタリヤ・ナルイシキナと再婚し、1672年に生まれた男子がのちのピョートル1世である。以後、二つの家は派閥争いを始めた。アレクセイは1676年2月8日に没した。短気な反面、思いやり深く信仰心が篤い人物で、人文主義者のシメオン・ポロツキーを家庭教師に、イングランド人コリンズを侍医に雇い、鷹狩りを好んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン・デマレ・ド・サン=ソルラン (1676年没)
- パウル・ゲルハルト (1676年没)
- ヘンリエッテ・アーデルハイト・フォン・ザヴォイエン (1676年没)
- カール・グスタフ・ウランゲル (1676年)
- ミヒール・デ・ロイテル (1676年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィタリー・セバスチャノフ (2010年没)
- Lyudmila Kasatkina (2012年没)
- セルゲイ・アフロメーエフ (1991年没)
- ワシリー・スミスロフ (2010年没)
- セルゲイ・ニコラエヴィッチ・ブラツコ (1956年没)