HISTORICAL PERSON · 1987年没

フレッド・アステア

舞台から映画に転じ、1930年代から1950年代のハリウッドのミュージカル映画全盛期を担った米国の俳優・ダンサー・歌手。

生涯
1987年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
アメリカ合衆国(オマハ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

フレッド・アステアは、1899年5月10日にアメリカ合衆国ネブラスカ州オマハで生まれた俳優、ダンサー、歌手である。本名はフレデリック・オースターリッツといった。母ジョハナは、ルター派のドイツ系移民の二世で、セールスマンだった父フレデリックは、カトリックに改宗したドイツ系ユダヤ人を両親として、オーストリアのリンツに生まれた移民一世である。4歳からダンス・スクールで学び、2歳上の姉アデールとコンビを組み、全米のヴォードヴィル劇場を巡演して人気を得た。17歳でブロードウェイにダンサーとして進出し、20歳で名声を確立した。しかし、1931年にアデールが結婚を機に芸能界を引退し、イギリスの貴族社会に入ったため、新たな活路を探ることになった。

映画俳優への転身を決意してカメラ・テストを受けたが、ハンサムとは言えない顔のせいで、当初の評価は散々だった。それでもステージで培った実力でスクリーンへの道を拓き、1933年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー映画『ダンシング・レディ』へのゲスト出演でスクリーンデビューした。続いて経営難にあったRKOと契約し、ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、1939年まで数々のヒット作を生んだ。RKOは、1933年公開の『キング・コング』と二人のダンス・コメディ映画によって経営を立て直したという。トップハットに燕尾服、ホワイトタイというエレガントな姿で、当時最高の作詞家や作曲家による曲を歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させた。二人は映画史上最高のダンシング・ペアとされる。ロジャースが「添え物」の立場に満足せず、演技派としての出演を望んだことで、コンビは終わった。

1940年からはフリーで映画に出演し、エレノア・パウエルやリタ・ヘイワースらとコンビを組んだ。第二次世界大戦中は軍の慰問活動と、出演数を減らした映画を中心に活動した。戦後の1946年にはMGMと契約した。1948年、ジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わって『イースター・パレード』の主役を引き受けると、世界的なヒットとなり、「過去の人」になりかけていたアステアの人気は再び急上昇した。1953年にはヴィンセント・ミネリ監督の『バンド・ワゴン』に主演し、これは長いキャリアの頂点の一つと見なされている。60歳近くなると体力の限界を見せ、ミュージカルの全盛も終わりつつあったので、ダンスなしで演技を見せるようにもなった。核戦争をテーマとした1959年の『渚にて』では医師を演じた。1968年のコッポラ監督の『フィニアンの虹』が、ミュージカル映画の最後の出演になった。晩年は『タワーリング・インフェルノ』などへの助演で渋い演技を見せ、アカデミー助演男優賞の候補となった。

最晩年まで自宅でのダンスの練習を怠らず、1983年にマイケル・ジャクソンが披露したムーンウォークを見ると、自らも挑戦したという。1933年に結婚した最初の妻フィリス・ポッターは、約21年の結婚生活ののち、脳腫瘍で46歳で急逝し、アステアは長く独り身で過ごした。1980年に女性騎手のロビン・スミスと再婚し、死ぬまで幸せに過ごしたという。1987年6月22日にロサンゼルスで死去した。88歳であった。没後の1989年にグラミー賞の特別功労賞を受けた。

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