伝記
メアリー・アスター、本名ルシール・ヴァスコンセロス・ラングハンケは、1906年5月3日にアメリカ合衆国イリノイ州クインシーで生まれた女優である。一人っ子で、父オットー・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・ラングハンケは、1891年にベルリンからアメリカに移住して帰化したドイツ人であり、母ヘレン・マリー・デ・ヴァスコンセロスは、ポルトガルの血を引くアメリカ人であった。両親はともに教師だった。父はクインシーの高校でドイツ語を教え、母は女優になりたいと願っていて、演劇と朗読を教えた。メアリーは自宅で学び、父の厳しい指導でピアノを習った。1919年に雑誌の美人コンテストに写真を送り、準決勝に進み、翌年にも写真を送って、全国の準優勝者となった。父は娘を映画に出すため、家族を連れてニューヨークに移り、1920年9月から1930年6月まで娘の仕事を取り仕切った。
写真家に撮られた写真がパラマウントの関係者の目に留まり、6か月の契約を結んだ。名前は、パラマウントの社長ら、ゴシップ記者との会合で、メアリー・アスターに決められた。最初のスクリーンテストはリリアン・ギッシュが監督し、シェークスピアの朗読に感心した彼女が、長いフィルムを回したという。14歳で映画に出たが、夢の場面の小さな役は、編集で削られた。1921年の短編で批評家に認められ、1922年に最初の長編映画に出演した。1923年に両親とハリウッドへ移り、パラマウントと週給500ドルの1年契約を結んだ。ジョン・バリモアが雑誌でその写真を見て、自分の映画に出演させたいと望み、1924年の『ボー・ブランメル』で相手役に抜擢された。年上のバリモアは17歳の彼女に言い寄ったが、両親が二人きりになることを許さず、秘密の婚約は両親の干渉などで終わった。この作品が、スターへのきっかけとなった。当初はお姫様的な役が多かったが、1930年代に入ると、『紅塵』(1932年)や『孔雀夫人』(1936年)などで、貞淑な女性の役を得意とした。トーキーの時代になると、声が男性的すぎると見られて、一年ほどスクリーンを離れたが、友人と舞台で共演して、映画の依頼が戻った。
しかし私生活では、不幸やトラブルが続いた。最初の夫はハワード・ホークス監督の弟で、結婚2年目に飛行機事故で墜落死した。1936年、2番目の夫との娘の親権をめぐる離婚訴訟の際に、浮気相手との秘め事を書いた日記が暴露され、大きなスキャンダルを巻き起こした。実の両親から、生活費の援助が少ないと訴えられたこともある。それでも仕事は順調で、1941年の『偉大な嘘』で、ピアニストの役を演じて、アカデミー助演女優賞を受賞した。同じ年にはハンフリー・ボガートと共演した『マルタの鷹』も、ヒットした。1940年代の大半はMGMの専属であった。戦後の代表作に『若草物語』(1949年)の母親役などがあるが、アルコール使用障害が悪化し、自殺を図ったこともある。その後はテレビの仕事が中心となり、1959年に波瀾万丈の人生をつづった自伝を出版して、ベストセラーとなった。5冊の小説も書いている。『ふるえて眠れ』(1964年)を最後に引退し、1987年9月25日にロサンゼルスで亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
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- Patrick Martin (1987年没)
- ボブ・フォッシー (1987年没)
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- クリフトン・シェニエ (1987年没)
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- ジョージア・コールマン (1940年没)
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