伝記
ピエトロ・アレティーノは、ルネサンス期イタリアの作家、詩人、風刺家である。1492年4月20日にトスカーナ地方のアレッツォで生まれた。通称の「アレティーノ」は「アレッツォの人」の意であり、父の姓は名乗らなかった。フランス語の記事によれば、父ルカ・デル・トゥーラは靴屋で、家族を捨てて兵士になった人物であった。母はティータの名で知られ、日本語の記事は彼女を何人もの芸術家のモデルを務めた美しい遊女としている。フランス語の記事は、地元の貴族ルイージ・バッチが母と子らを助け、ピエトロを自分の家族の一員のように育てたと伝える。
受けた教育は祈りができる程度に乏しかったという。日本語の記事は、13歳で母の金を盗んでペルージャへ逃げ、製本屋の部屋を借りて暮らしたと伝える。フランス語の記事は、故郷を追われてペルージャで十年ほどを過ごしたとする。その後、そこからローマへ推薦されて、ラファエロの後援者でもあった富裕な銀行家アゴスティーノ・キージに庇護された。ローマでは教皇レオ10世の取り巻きになろうとしたとされる。1516年にレオ10世の愛した象のハンノが死ぬと、その遺言に見立てた風刺文を書き、ローマの政治家や宗教界の有力者、教皇本人までも巧みに笑いものにした。これが評判をとって世に出る契機となり、鋭い風刺で知られるようになった。詩人アリオストは、彼を「王侯の懲らしめの鞭、神のごとき」と形容したという。
レオ10世の没後は枢機卿ジュリオ・デ・メディチの後援を受けたが、続く教皇ハドリアヌス6世をドイツの雌虎と呼んで嫌い、マントヴァ侯フェデリーコ2世や傭兵隊長ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレのもとに新たな庇護者を求めた。旧主がクレメンス7世として教皇位に就くとローマへ戻り、1524年に教皇を讃える詩を書いて最初の年金を得た。同じ年、ジュリオ・ロマーノの好色な素描に添える淫らなソネットを書き、これが大きな醜聞を呼んで1525年にローマを離れざるをえなくなった。犠牲者の一人である司教ジベルティによる暗殺未遂もあったとされ、北イタリアの諸侯のもとを転々としたのち、1527年にヴェネツィアに定住した。
ヴェネツィアを根拠地として、著名人を中傷するか、大げさに褒め称える詩や書簡を発表し、富と名声を築いた。ヤーコプ・ブルクハルトは、彼がイタリアの名士たちを一種の包囲状態に置いたと評している。多くの君侯は攻撃を避けようと贈り物をし、フランソワ1世と皇帝カール5世が同時に彼を支援した。のちに教皇ユリウス3世からサン・ピエトロの騎士に任じられ、年金だけで820スクードを受け取り、生涯に使った金は10万フランを超えるともいわれる。敵も多く、何度も殺されかけた。
著作には、女たちの会話の形をとった放埒な『気まぐれなおしゃべり』、『遊女』『主馬頭』『偽善者』、『オラツィア』、『書簡集』がある。宗教改革者との交流や共感のため、隠れた新教徒とみなされることもある。晩年には『イエスの受難』『キリスト伝』『聖女カテリーナ・ダ・シエーナ伝』などの敬虔な作品も出した。ブルクハルトは、自作に必ず署名し無条件に公開した彼の態度から、「ジャーナリズムの元祖」と評した。1556年10月21日にヴェネツィアで没し、最期は卒中で倒れたとも、笑いすぎて死んだともされる。没後三年の1559年、教皇パウルス4世により、その全著作が禁書目録に載せられた。
同じ年に亡くなった人物
- クレメンス・ノン・パパ (1556年没)
- リチャード・チャンセラー (1556年没)
- ロレンツォ・ロット (1556年没)
- シュームビケ (1556年(推定))
- フズーリー (1556年没)
同じ地域に関係する人物
- レオナルド・ロレダン (1521年没)
- アルヌルフ・フォン・バイエルン (1907年没)
- ニコロ・コンタリーニ (1631年没)
- ジローラモ・サヴォルド (1540年代没)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)