伝記
ヴォロガセス6世は、アルサケス朝パルティアの王である。生年は不詳で、没年は228年とされ、在位は208年から228年にかけてと伝えられる。父はヴォロガセス5世で、208年にその跡を継いで王となった。パルティア語の名はワラガシュといい、ギリシア語やラテン語ではヴォロガセスの形で伝わる。新ペルシア語ではバーラーシュ、中期ペルシア語ではワルダーフシュなどの形も確認されるが、名の語源ははっきりしない。
即位してしばらくは、その支配に異議を唱える者はなかった。しかし弟のアルタバヌス4世がこれを不服として反乱を起こし、王を名乗った。兄弟の争いが始まった時期は213年ごろとされ、アルタバヌス4世はメディアを拠点にスサなどを含むパルティアの大部分を押さえた。ヴォロガセス6世はバビロニア、とりわけセレウキアを維持するにとどまり、そこで貨幣を鋳造したようである。
この兄弟の対立に目をつけたのが、ローマ皇帝カラカラであった。カラカラはパルティアに侵攻する口実を探し、哲学者のアンティオコスと、アルメニアの王族とも、ヴォロガセス6世の叔父ともいわれるティリダテスという二人の亡命者の引き渡しを、ヴォロガセス6世に求めた。ローマ側の意に反して、ヴォロガセス6世は215年に二人をカラカラのもとへ送り、口実を与えなかった。この時カラカラがアルタバヌス4世ではなくヴォロガセス6世に話を持ちかけたことは、ローマがなお彼を有力な王と見ていたことを示す。カラカラはその後アルメニア侵攻に向かい、解放奴隷のテオクリトスに指揮を任せたが、失敗に終わった。続いてカラカラはアルタバヌス4世に娘との結婚を求めたが断られた。この提案が誠意あるものだったかどうかは議論がある。ただ、この働きかけは、いまやアルタバヌス4世が優位に立つと見られていたことを物語る。217年にカラカラがアルタバヌス4世の拠点メディアを攻めたため、ヴォロガセス6世の地位はしばらく安定した。カラカラの死後、次の皇帝マクリヌスの世にも戦いは続いたが、218年にローマ軍は敗れて撤退した。
224年、アルタバヌス4世の支配下にあったペルシスの王国で、パーパクに代わってアルダシール1世が王となり、反乱が起きた。アルタバヌス4世はアルダシール1世に敗れ、殺されたともいわれる。アルダシール1世は諸王の王を称し、スーレーン氏族をはじめ大貴族の一部が彼に帰順すると、ヴォロガセス6世にも攻撃が及んだ。ヴォロガセス6世はアルダシール1世との戦いで戦死したともいわれる。セレウキアでは221年か222年ごろまで統治したとされ、メソポタミアでは228年まで彼の貨幣が現れるが、これが最後である。その後ほどなく、アルダシール1世に追われるか敗れるかしたと考えられる。こうしてパルティアは滅び、サーサーン朝ペルシアが新たな帝国を築くことになった。
同じ年に亡くなった人物
- ドミティウス・ウルピアーヌス (228年没)
- 馬謖 (228年没)
- 周泰 (228年)
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