HISTORICAL PERSON · 1986年没

ヴャチェスラフ・モロトフ

スターリンの片腕として、第二次世界大戦前後のソ連外交を主導した政治家。首相や外務大臣を歴任した。

生涯
1986年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(ソヴィェツク (キーロフ州))
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフは、1890年3月9日(ユリウス暦では2月25日)に、ロシア帝国のヴャトカ県のクカルカ村で生まれた、ソビエト連邦の政治家、革命家である。本名はスクリャービンといい、「モロトフ」は「ハンマー」を意味する言葉に由来するペンネームである。父ミハイルは領地管理人、母アンナは商家の出で、裕福な家庭に育った。1906年にロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキのメンバーとなった。1909年に逮捕されて流刑となり、のちに再び流刑された。1912年に創刊された党機関紙『プラウダ』の編集書記として参加し、このころから「モロトフ」の名を使い始めた。

1917年の二月革命では、臨時政府の支持に反対したため、しばらく党中央のメンバーから外された。しかしレーニンが反臨時政府の立場を明確にすると、再び中央に復帰して、急進的な革命を主張した。十月革命ではペトログラード・ソビエト軍事委員会の委員を務めた。1921年には党中央委員会書記局の筆頭書記となり、政治局員候補になった。この年、ウクライナの党書記だったポリーナ・ジェムチュジナと結婚した。翌1922年にスターリンが書記長に任命されると、以降の党内闘争ではスターリン派として動き、トロツキーやルイコフらの政敵の排除に大きな役割を果たした。1926年に正式に政治局員となった。1930年12月にルイコフが解任されると、後任の首相に就任し、名実ともにソ連のナンバー2となった。大粛清ではスターリンの側近として多くの処刑リストに署名し、その数は、スターリンの357件を上回る372件で、リストに署名した政治局員の中で最も多かった。

1939年5月、ナチス・ドイツとの融和をはかるスターリンによって、ユダヤ人で英仏との協力を構想していた外務人民委員リトヴィノフが解任され、モロトフが外務人民委員を兼務した。以降10年にわたってソ連外交の長を務めた。8月には独ソ不可侵条約を締結して世界中を驚愕させ、これには、ポーランドの分割とバルト三国のソ連による併合を取り決めた秘密議定書が付属していた。9月のポーランド侵攻は第二次世界大戦の口火を切り、その後のポーランド軍将校の虐殺にも、政治局の一員として賛成した。11月30日にフィンランドとの冬戦争が始まると、国際連盟が撤兵を求める最後通告を送ったが拒否した。フィンランド政府がソ連機の空爆に抗議すると、モロトフは、空からパンを投下しているのだと発言した。フィンランド人はこれを皮肉って、焼夷弾を「モロトフのパン籠」と呼び、火炎瓶を「モロトフ・カクテル」とあだ名した。1941年5月にスターリンに首相職を譲り、外相専任となって、日本の松岡洋右外相と日ソ中立条約に調印した。

戦時中から戦後にかけて、アメリカ、イギリスとしたたかな外交交渉を展開し、冷戦期の共産圏の基礎を作ったとされる。しかし戦後、スターリンの警戒心は高まり、1949年1月に妻ポリーナは逮捕されて流刑となった。3月にモロトフは外務人民委員を解任された。1953年3月5日にスターリンが死去すると、その日のうちに外相に復帰し、妻も収容所から解放された。1956年2月にフルシチョフがスターリン批判を行うと反発し、9月に外相を解任された。1957年6月、マレンコフらとともにフルシチョフ解任の動議を提出したが逆襲され、「反党グループ」として政治局員から解任されて、駐モンゴル大使に左遷された。多くが自己批判や謝罪を行う中、モロトフだけは意見を変えなかった。1986年11月8日に没した。

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