HISTORICAL PERSON · 1986年没

ハロルド・マクミラン

1957年から1963年まで英国の首相を務めた政治家。国防大臣、外務大臣、財務大臣なども歴任し、出版社を営むマクミラン家の出身。

生涯
1986年没
死亡地
イギリス連邦(ウェスト・サセックス / ホーステッド・キーンズ)
出生地
イギリス連邦(チェルシー)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウェスト・サセックス)

伝記

初代ストックトン伯爵モーリス・ハロルド・マクミランは、1894年2月10日、ロンドンのベルグレイヴィアで、出版業を営むモーリス・クロフォード・マクミランと、インディアナ州出身の画家で社交家だった妻ヘレンの子として生まれたイギリスの政治家である。兄が二人いた。祖父ダニエルは、マクミラン出版社を創業した人物で、スコットランドのアラン島の小作農の子だった。彼は自らをスコットランド人と考えていた。幼いころから、アメリカ人の母に導かれた集中的な早期教育を受け、午前中は乳母たちからフランス語を習い、6、7歳から古典のラテン語とギリシャ語の初歩を学んだ。イートン・カレッジでは、繰り返す病気に悩まされ、肺炎で危うく命を落としかけ、最終学年は家庭教師から学んだ。そのうちのロナルド・ノックスは、彼の高教会派の英国国教会の信仰を深めた。奨学金を得て、1912年にオックスフォード大学のベリオール・カレッジに入った。

第一次世界大戦ではイギリス陸軍に志願し、1914年11月に臨時の歩兵少尉となった。のちグレナディアガーズ連隊に転じ、1916年7月のソンムの戦いで、至近距離から銃弾を受けて重傷を負った。この傷は生涯残り、体を斜めにして歩く癖があり、時折痛みに苦しんだ。1920年に軍務から引退し、家業の出版社に加わった。1924年10月に庶民院議員となり、第2次チャーチル内閣で初めて住宅・地方自治大臣として閣僚入りして名声を博した。1954年10月に国防担当閣外大臣となった。イーデン内閣では外務大臣に任命されたが数か月で外され、財務大臣に異動した。これで首相への道は失われたとまで言われたが、結果として、外相としてスエズ危機の責任を負うことを免れた。

1957年1月、イーデン首相がスエズ動乱での出兵が国際的な非難を浴びて辞任すると、後継の有力候補はマクミランとラブ・バトラーの二人だった。バトラーは長老議員の評判が悪く、スエズ危機の責任もマイナスだったため、ソールズベリー卿らの女王への推薦で、マクミランが首相に就任した。在任は1957年1月22日から1963年10月17日までである。ヨーロッパ経済共同体への加盟を策したが、ド・ゴール大統領に拒否され、1960年5月に欧州自由貿易連合を発足させた。スエズ危機で冷え込んだアメリカとの関係改善にも力を注ぎ、アイゼンハワーとは親しい関係を結んだ。第二次世界大戦中に北アフリカ総督代理を務めた彼は、ヨーロッパ戦線の最高司令官だったアイゼンハワーと旧知の仲で、非常に馬が合ったという。ケネディ大統領とも、年齢が親子ほど違ったが、緊密な関係を保った。1960年のアフリカ訪問では、「いまや変革の風がこの大陸を吹きぬけている」と演説し、アフリカのイギリス領植民地の独立を促すとともに、南アフリカのアパルトヘイトを批判した。

混合経済を志向して国内の経済危機を乗り切ろうとし、1959年10月の総選挙で保守党を勝利に導いた。しかしその後はインフレと失業率が昂進した。1962年7月13日に閣僚の3分の1にあたる7人を入れ替えたが、1963年10月に、プロヒューモ事件などのスキャンダルの責任を取って総辞職した。1962年に王立協会フェローに選ばれ、1984年2月10日の90歳の誕生日に、ストックトン伯爵に叙せられた。1986年12月29日に、ウェスト・サセックス州で死去した。

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