伝記
アンドレイ・アルセーニエヴィチ・タルコフスキーは、1932年4月4日に生まれ、1986年12月29日に没したソ連の映画監督である。「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的な自然描写と、とりわけ「水」の象徴性を巧みに用いた映像美で知られる。後期から晩年にかけては、人類の救済をテーマとした作品を監督した。表現の自由を求めてソ連から亡命し、故郷に還ることなく、パリで54歳で亡くなった。
ヴォルガ川流域のイワノヴォ地区、ユリエヴェツ近郊のザブラジェに生まれた。父はウクライナの詩人として著名なアルセニー・タルコフスキーだが、幼少期に父が家を出て別の家庭を作ったため、主に母に育てられた。この事情は、自伝的な作品『鏡』(1975年)に描かれている。赤貧のうちに育ち、芸術学校で音楽を学んだが、家にピアノがなく断念した。次に絵を学び始めたが、結核で1年間療養した。モスクワの東洋学院のアラビア語科に入ったものの、1年半で中退した。この頃はジャズと女性が好きな不良少年となったため、心配した母により、シベリアの地質調査隊に入れられ、1953年から1年間をタイガの森で過ごした。
その後、映画大学への進学を決意し、父の尽力もあって、1954年に全ソ国立映画大学に入学した。落ちこぼれだった彼が入れたのは奇跡だったと、友人たちは証言している。ミハイル・ロンムのもとで映画を学んで頭角を現し、アンドレイ・コンチャロフスキーや、その弟ニキータ・ミハルコフらと親交を結んだ。卒業制作の短編『ローラーとバイオリン』は、ニューヨーク国際学生映画コンクールで第一位を受賞した。1962年に、急遽代役として起用された『僕の村は戦場だった』で長編映画監督としてデビューし、この作品で、ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を史上最年少の30歳で受賞した。この記録は現在でも破られていない。
1962年から63年末にかけて、ロシアのイコン画家の生涯を描く歴史大作『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本を、後輩のコンチャロフスキーと共同で執筆した。予算不足と検閲に苦しみながら1967年に完成したが、ソ連当局に「反愛国的」と指摘され、国内では5年間上映されなかった。海外では高い評価を受け、1969年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家賞を受けた。1972年には莫大な費用をかけて『惑星ソラリス』を製作し、SF映画の概念を一変させたと評価され、カンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞した。1975年に自伝的な『鏡』を完成させたが、難解な映像が国内で厳しく批判された。1979年にはストルガツキー兄弟との共同脚本で『ストーカー』を撮影し、検閲をめぐって当局との確執は深まる一方だったが、国際的な名声は高まり続けた。
芸術家の自律性と表現の自由を求めてソ連を出国し、イタリアで『ノスタルジア』を撮影して、1983年に完成させた。カンヌ国際映画祭では、創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞を受賞した。1984年に、ソ連当局からの帰国要請を撥ねつけ、事実上の亡命を宣言した。この頃のソ連は規制緩和が進んでおり、わざわざ亡命を宣言する必要はなかったといわれるが、検閲に対する積年の嫌悪は、それほど強烈だった。スウェーデンで、核戦争の勃発を背景とした『サクリファイス』を監督し、1986年に完成させたが、撮影時に末期の肺癌が判明して、そのまま病床の人となった。祖国では、ゴルバチョフ書記長が名誉回復を宣言し、帰国を認める声明を出したが、同年12月29日にパリで亡くなった。翌1987年1月5日、パリの聖アレクサンドル・ネフスキー寺院で葬儀が行われた。
同じ年に亡くなった人物
- ミハイロ・ペトロヴィチ (1986年没)
- アブドゥルマジード・カアバール (1986年没)
- ジェームズ・H・ウィルキンソン (1986年没)
- ロバート・A・ラヴェット (1986年没)
- Policarpo Ribeiro de Oliveira (1986年没)
同じ地域に関係する人物
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- レーモン・クノー (1976年没)
- アレクサンドル・ペトロヴィッチ (1994年没)
- ジャン・ユスターシュ (1981年没)
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