HISTORICAL PERSON · 224年没

ユリア・マエサ

ローマ皇后ユリア・ドムナの姉。孫のヘリオガバルスとアレクサンデル・セウェルスを相次いで皇帝に擁立し、娘たちと共に実権を握った。

生涯
224年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
シリア共和国(ホムス)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ユリア・マエサは、古代ローマのセウェルス朝に連なる女性で、165年5月7日に生まれ、224年8月3日に没したとされる。生年については160年より前とする説もある。シリアのエメサ(現在のホムス)で、神エル・ガバルに仕える神官ユリウス・バッシアヌスの娘として生まれた。アラブ系の神官の家柄で、妹のユリア・ドムナは、のちにローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの妻となった。この結婚によってマエサは皇帝の義姉となり、カラカラとゲタという、のちに皇帝となる二人の甥を持つことになった。マエサという呼び名はアラビア語の動詞に由来するとされ、体を揺らして歩くことを意味するという。姿を記した文献は残らないが、孫たちの治世に鋳造された貨幣には、妹の柔和な顔立ちとは異なる、鋭く厳しい顔つきが刻まれている。

マエサは同じシリア出身で執政官級のユリウス・アウィトゥスと結婚し、二人の娘をもうけた。長女ユリア・ソアエミアスはセクストゥス・ウァリウス・マルケルスと結婚してヘリオガバルスの母となり、次女ユリア・ママエアはマルクス・ユリウス・ゲシウス・マルキアヌスと結婚してアレクサンデル・セウェルスの母となった。妹がローマで皇后となると、マエサも家族を連れてローマへ移り、宮廷で暮らした。夫のアウィトゥスは各地の要職を務めて帝国内を何度も旅したが、マエサはその旅に同行しなかった。この間に一家は大きな富を築き、二人の娘の夫たちも属州総督や執政官といった高い地位に就いたとされる。

217年にカラカラが暗殺されてマクリヌスが帝位を奪うと、乳がんを患い、権勢も二人の子も失っていた妹ドムナは、絶食して自ら命を絶ったという。マエサと家族は難を免れたものの、マクリヌスの命でローマを去り、故郷のエメサへ戻った。マクリヌスはカラカラの記憶に背く行いを避け、軍の報復を招かないようにしたかったためと考えられている。マエサが二十年以上かけて築いた財産はそのまま残された。マエサは217年の春から218年の春までの間にエメサへ着いたとされる。

エメサの近くには、なおセウェルス家に好意を寄せる兵士のいる軍の基地があり、兵士たちはマクリヌスがパルティアと結んだ和平にも不満を抱いていた。マエサにとって、そこは家門を権力の座に戻す企てを始めるのにふさわしい場所だった。夫と長女の夫はすでにキプロスで亡くなっており、候補となる男子は、孫で太陽神エル・ガバルの世襲の神官だった14歳のウァリウス・アウィトゥス・バッシアヌスだった。彼の神殿での儀式を見物しに来る第3ガリカ軍団の兵士たちは、すでに彼に関心を寄せ始めていた。

218年、娘ソアエミアスの愛人ガンニュスによって、14歳の孫ヘリオガバルスが皇帝の座に就けられると、マエサはソアエミアスとともに権力を握った。ヘリオガバルスは222年に暗殺されたが、前年にその養子となっていたもう一人の孫アレクサンデル・セウェルスが皇帝とされ、マエサは引き続き、その母ユリア・ママエアとともに実権を握った。マエサは218年から死去するまで、帝国のアウグスタの称号を持ち、とりわけ孫たちの即位に影響力を振るった。224年に死去し、のちにシリアで妹とともに神格化された。ヘリオガバルスにもアレクサンデル・セウェルスにも子がなく、マエサの血筋は235年のアレクサンデルの死で絶えた。これでセウェルス朝の支配も終わり、ローマ帝国は238年の内戦を皮切りに、3世紀の危機に入っていった。

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