HISTORICAL PERSON · 217年没

ユリア・ドムナ

セプティミウス・セウェルスの妻で皇后。夫の軍事行動に同行し実力者として振る舞ったが、夫の死後は息子カラカラとゲタの対立を調停し、カラカラの死後は幽閉先で絶食して没した。

生涯
217年没
死亡地
トルコ共和国(ハタイ県 / アンティオキア)
出生地
シリア共和国(ホムス)
出典
世界地図
トルコ共和国(ハタイ県)

伝記

ユリア・ドムナは、ローマ帝国のセウェルス朝を開いたセプティミウス・セウェルスの妻であり、カラカラとゲタの母である。170年の生まれとも、160年ごろの生まれともいわれ、217年に没した。夫の死後は皇帝家の陰の実力者として振る舞った女性である。出身はシリアのエメサ(現在のホムス)で、太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)の神職を代々受け継ぎ、町も支配する祭祀王の家系だった。非常に裕福な家で、父は神官のユリウス・バッシアヌス、姉にはユリア・マエサがいた。マエサの孫が、のちにローマ皇帝となるヘリオガバルスとアレクサンデル・セウェルスである。結婚前には、大叔父で元百人隊長のユリウス・アグリッパの財産を相続したともされる。ドムナという名は古いアラビア語で「黒」を意味し、黒い石の姿をとった神エル・ガバルにちなむという。

180年代後半、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督だったセウェルスと結婚した。セウェルスは先妻を亡くしたのち、シリアの女性が王の妻になるという占いを聞き、それが彼女だと考えて結婚を決めたという。結婚は187年のことで、ルグドゥヌム(現在のリヨン)で式を挙げたとされる。彼女は教養があり哲学を学んでいたため、セウェルスは彼女の政治的な意見も重んじたといわれる。188年にカラカラ、189年にゲタが生まれた。

192年に皇帝コンモドゥスが後継者を残さず殺されると、帝位をめぐる争いが起こった。ペルティナクス、ディディウス・ユリアヌスが相次いで立てられたのち、パンノニア上部の総督だったセウェルスが軍を率いてローマへ進み、193年に皇帝と認められた。しかしペスケンニウス・ニゲルやクロディウス・アルビヌスといった敵が残っており、ニゲルを194年のイッソスの戦いで破り、アルビヌスを197年のルグドゥヌムの戦いで倒してようやく内戦は終わった。当時の女性はローマで夫の帰りを待つのが普通だったが、ユリアはこの軍事行動に夫とともに加わり、軍営に滞在した。そのため「陣営の母」「アウグストゥスの母」「祖国の母」などの称号を受け、公式の称号の数と種類は他のどの皇后よりも多かったと評される。こうして夫の陰で絶大な政治力を持つに至ったが、外征の多いセウェルスに代わってローマで影響力を振るう彼女を元老院は歓迎せず、さしたる理由もなく不義と国家反逆の罪で告発された。それでもセウェルスは妻への態度を少しも変えなかった。

211年にセウェルスが没すると、2人の息子が共同皇帝となり、ユリアは寡婦となった皇后として初めて「敬虔にして幸運なるアウグスタ」の称号を受けた。セウェルスは兄弟が協力して統治することを望んでいたが、カラカラとゲタは非常に仲が悪く、絶えず対立した。ユリアは調停役を務めたものの、同年12月にカラカラはゲタを殺害した。その後も彼女は息子カラカラを支え、内政を取り仕切ったとされる。

217年、ユリアはカラカラとともにパルティア遠征に出たが、遠征中にカラカラは近衛兵に暗殺された。後を継いだ近衛隊長官マクリヌスは当初、旧セウェルス朝の関係者に寛大だったが、やがてユリアを反逆の疑いでアンティオキアに幽閉した。すでに重い病に冒されていた彼女は、絶食して死を選んだとされる。のちに姉マエサの孫ヘリオガバルスが218年に即位し、セウェルス朝は再び帝位を得た。なお、ゲタは未婚のまま殺され、カラカラにも男子はなく、ユリアの直系の血筋は途絶えたとされる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物