伝記
バルバロス・ハイレッディンは、北アフリカ一帯の海を支配した海賊で、のちにオスマン帝国の提督となった人物である。1475年に生まれ、1546年7月4日に没した。「バルバロス」は赤髯、またはバルバリアの王の意で、ヨーロッパではイタリア語で赤い髭を意味するバルバロッサの名で知られる。バルバリア海賊のなかでも、ヨーロッパ人から特におそれられ、1538年のスペインなどとのプレヴェザの海戦の勝利を導いた。兄はバルバロス・オルチ(ウルージ)で、二人はバルバロス兄弟として地中海で知れ渡った。エーゲ海のレスボス島の出身といわれ、父の祖先はギリシア人、アルバニア人、トルコ人の諸説がある。父ヤークープはスィパーヒーで、母はミティリーニ出身の正教徒聖職者の寡婦だった。夫妻は二人の娘と四人の息子をもうけ、三男のフズールが、のちのハイレッディンである。
兄弟四人はみな船乗りとなり、ロドス騎士団を相手にする私掠船で活動した。フズールは主にテッサロニキを拠点にエーゲ海で活動し、次男ウルージはオスマン帝国の皇子コルクトから与えられたガレー船でロドス騎士団を襲撃した。1503年にウルージがジェルバ島を新しい根拠地とすると、フズールも合流した。1504年、兄弟は戦利品の5分の1を差し出す条件で、チュニジアのハフス朝のスルタンからラ・グレット港の使用を許され、教皇の船団やイタリア半島各地を襲った。スペインのムスリムを北アフリカへ運ぶ活動でウルージは名声を得て、「父ウルージ」と呼ばれるようになり、それが訛ってバルバロッサとなったともいう。1512年の戦闘でウルージは左腕を失い、「銀の腕」の渾名を得た。1516年、兄弟はスペイン人からアルジェを奪ったが、ウルージはスペインと対決するにはオスマン帝国との同盟が最上策と考え、アルジェを帝国に献上した。スルタンのセリム1世は彼をアルジェの知事に任じ、イェニチェリやガレー船、大砲の支給を約束した。
1518年、トレムセンをめぐる戦いでウルージが戦死すると、フズールはセリム1世からベイレルベイの称号を得て、兄の地位と渾名、任務を継いだ。同年12月にはオスマン帝国の援軍を得てトレムセンを奪還した。1519年にはアルジェ奪回に来たスペインとイタリアの連合軍を破り、南仏のトゥーロンなどを略奪した。1520年代にはバレアレス諸島やイタリア沿岸を繰り返し襲い、1529年にはスペイン人の砦を陥落させてアルジェを占領し、7万人のムスリムが北アフリカへ脱出するのを助けた。
1532年、皇帝カール5世に任命されたアンドレア・ドーリアがギリシアの諸要地を占領すると、スレイマン1世は海防の重要性を痛感し、バルバロッサをコンスタンティノープルへ呼び寄せた。彼はスレイマンに面会し、大提督と北アフリカのベイレルベイに任命された。1534年には80隻のガレー船を率いて、ローマ近郊のオスティアにまで上陸し、ローマでは警鐘が鳴らされた。この年チュニスも占領したが、1535年にカール5世の連合軍が来ると、脱出した。1537年にはコルフ島を襲撃したが、古い城を落とせず、この事件は「対オスマン神聖同盟」の結成の直接の原因となった。1538年2月に教皇パウルス3世が同盟を結成させると、9月のプレヴェザの海戦でバルバロッサ軍がドーリアの連合軍を破った。この勝利により、オスマン帝国は、1571年のレパントの海戦までの33年間、地中海を支配した。
同じ年に亡くなった人物
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