伝記
三宅二郎は、1900年または1901年に生まれたとされる。関西大学に在学していた1921年、数名の有志の学生らとともにサッカー部を創設した。まだ大学サッカーの組織が広く整えられていたとは限らない時期に、学生たちが競技の場を自ら形にしたことは、三宅の歩みの出発点となった。後に彼が代表選手として活動できた背景にも、この時期に築かれた大学の競技環境があったと考えられる。
転機となったのは、1925年の国際舞台への進出である。5月に開催された第7回極東選手権競技大会で日本代表に選ばれ、17日のフィリピン代表戦と20日の中華民国代表戦にFW(CF)として出場した。国際Aマッチでの出場は2試合で、得点は記録されていない。しかし、関西大学で競技を始めた学生が日本代表として国際試合に出場したことは、大学サッカーと代表活動が結びつく一例となった。
同年9月には、関西大学サッカー部の上海遠征のメンバーに選ばれ、現地での試合にも出場した。この遠征は、学生チームによる海外遠征として初めてだったとされる。1921年の部創設と1925年の上海遠征を続けて見ると、三宅の活動は、大学にサッカー部を置く段階から、学生チームが海外で試合を行う段階へと競技の可能性を広げていった。そこに、学生サッカーの組織化と活動範囲の拡大という変化を読み取ることができる。
1926年3月、関西大学商学部を卒業して朝日新聞社に入社し、その後は同社の徳島支局長を務めた。競技者としての活動を経て、社会人としての職務を担う一方、1951年1月には関西大学校友会徳島支部長に就任し、1962年まで務めている。大学サッカーの創設に関わった人物が、卒業後も校友組織を通じて徳島と関西大学とのつながりに関わったことは、競技生活が一時的な経験にとどまらなかったことを示している。
さらに三宅は、徳島陸上競技協会会長、徳島県体育協会副会長および同参与を歴任した。こうして晩年まで、サッカーに限らず地域のスポーツ運営に関わる立場を担った。1984年11月30日、肺炎により死去し、享年83歳であった。三宅の生涯は、大学サッカー部の創設、国際試合への出場、学生チーム初の海外遠征、そして地域スポーツ団体での活動を通じて、競技の実践と組織の発展の双方に関わった歩みとして記録されている。
同じ年に亡くなった人物
- カール・コリ (1984年没)
- ゴ・ディン・トゥク (1984年没)
- エドワード・ジェームズ (1984年没)
- チグラン・ペトロシアン (1984年没)
- リチャード・ブローティガン (1984年没)
同じ地域に関係する人物
- 大谷一二 (2007年没)
- 福原黎三 (1970年没)
- 鈴木重義 (サッカー選手) (1971年没)
- 長宗我部元親 (1599年没)
- 武田惣角 (1943年没)