伝記
チグラン・ワルタノビッチ・ペトロシアンは、1929年6月17日、グルジアのトビリシで、アルメニア人の両親のもとに生まれたチェスの世界チャンピオンである。1904年にトルコから逃れてきた父は、トビリシの赤軍の宿舎で管理人をしており、息子は時折、そこで将校たちが指すチェスを観戦することができた。ルールを覚えたのは12歳のとき、少年宮殿のチェス部門だった。初期の学習書には、マイゼリスの本、シュピールマンの『犠牲の技術』、ニムゾヴィッチの『わが体系』があり、その内容を暗記して、棋風に深い影響を受けた。1942年にはザロ・フロールを同時対局で破り、同じ年の秋から冬にかけて、ダヴィド・ブロンシュタインと知り合った。
1944年に両親がともに亡くなり、15歳で学校に通いながら、さまざまな小さな仕事で妹を養った。しかしチェスから離れることはなく、1944年にグルジア選手権で9位から11位に並んだ。1945年からソ連ジュニア選手権に出て、1945年に1位から3位に並び、1946年には単独優勝した。1945年にはトビリシ選手権で2位となり、グルジア選手権で優勝した。1946年にアルメニア選手権で1位となり、ゲンリフ・カスパリアンの提案でエレバンに移った。1949年からは、ソ連選手権に備えて、モスクワに居を移した。1951年のソ連選手権で上位に入り、翌1952年の地域間トーナメントでの成績によって、23歳の若さで当時最年少の国際グランドマスターになった。
1959年にソ連選手権で優勝し、ソビエト連邦のチャンピオンとなった。これを含めて、ソ連選手権のタイトルは4度獲得している。1963年には世界チャンピオンのミハイル・ボトヴィニクへの挑戦者となってこれを破り、世界チャンピオンに就いた。1966年にボリス・スパスキーが挑戦者となったときは、スパスキーを破ってタイトルを保持した。しかし1969年に再び挑戦してきたスパスキーに敗れ、世界チャンピオンの座を明け渡した。ソ連選手権には世界王者であった1962年から1968年は出場せず、王座を失うと戻って、1969年と1975年に優勝している。1975年にヴィクトール・コルチノイがスイスに亡命した際には、他のソ連のトップ選手とともにコルチノイを批判した。
鉄壁の守りで知られ、自分からはあまり攻めない堅守の棋風だった。強固な個性と不屈の意志から、「鉄のチグラン」「くろがねのペトロシアン」と呼ばれた。敗れることが少なく、ソ連選手権では6回、1局も負けずに終えた。チェス・オリンピアードの出場では、129局で負けたのは1局だけだった。アメリカのジャーナリストは、彼との対戦を「ウナギに手錠をかけようとするようなものだった。掴むものが何もなかった」と評した。スパスキーは「ハリネズミを思い起こさせる。捕まえたと思った瞬間に、針を突き出すのだ」と語っている。チェスの週刊誌『64』の編集長を務め、編集者としても活動した。1984年8月13日、モスクワで胃癌のため55歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ダイアナ・ドース (1984年没)
- トルーマン・カポーティ (1984年没)
- アーネスト・タブ (1984年没)
- バイロン・ハスキン (1984年没)
- レオン・クロワザ (1984年没)
同じ地域に関係する人物
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- Christophe de Margerie (2014年没)
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