HISTORICAL PERSON · 1984年没

サム・ペキンパー

アメリカの映画監督。『ワイルドバンチ』『わらの犬』『ゲッタウェイ』などを撮り、残酷な作風から「血まみれのサム」と呼ばれた。

生涯
1984年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / イングルウッド)
出生地
アメリカ合衆国(フレズノー)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

サム・ペキンパーは、1925年2月21日、カリフォルニア州フレズノで生まれたアメリカ合衆国の映画監督である。本人はインディアンの血を引いていると自慢していたが、実際はドイツ系移民の子孫で、一族の本来の苗字はベッケンバッハだった。米国に移民してからペキンパーに改め、曾祖父の代から現在の綴りになったという。少年時代は読書好きで繊細な性格だったと伝えられる。第二次世界大戦では海兵隊として従軍した。戦後は南カリフォルニア大学に入り、演劇を学んで、卒業後はしばらく舞台演出家として活動した。その後テレビ局の裏方としてスタジオに入り、ドン・シーゲルのもとに弟子入りした。『ガンスモーク』『ライフルマン』『風雲クロンダイク』といった脚本がテレビ局に買われ、西部劇のテレビシリーズのディレクターになった。

初めて監督した劇場映画は、1961年の『荒野のガンマン』である。翌1962年の『昼下りの決斗』で監督としての力量を認められたが、1965年の『ダンディー少佐』では編集権をめぐってプロデューサーと衝突し、以後しばらく映画界から干された。1966年のテレビ映画『昼酒』での演出が認められて復帰した。1969年の『ワイルドバンチ』では、スローモーション撮影を多用した独特のバイオレンス描写でアクション映画に新境地を切り開いたが、一般の観客や保守的な批評家からは、過激な暴力表現が批判を招いた。1970年の『砂漠の流れ者』は、本人がベスト・フィルムと宣言した作品で、穏やかな一面が見られる。1971年の『わらの犬』は、特に暴力描写が激しく、公開後に物議を醸した。1972年にウォルター・ヒル脚本の『ゲッタウェイ』で、人気俳優スティーブ・マックイーンを主役に迎え、大ヒットを記録した。

1973年の『ビリー・ザ・キッド』はボブ・ディランが音楽を担当し、本人も棺桶屋の役で出演した。1974年の『ガルシアの首』は、アメリカでは惨敗したが、日本ではヒットした。次の『キラー・エリート』(1975年)と『戦争のはらわた』(1977年)も、アメリカでは興行的にいまひとつだったが、オーソン・ウェルズやマーティン・スコセッシらに絶賛された。1978年の『コンボイ』は、キャリアで最大のヒット作となったが、撮影中のスタジオでの素行の悪さを映画会社に嫌われ、しばらく監督業から遠ざけられた。5年後の『バイオレント・サタデー』(1983年)が最後の監督作となった。

予算やスケジュールを度外視してまで作品の完成度を追求し、気に入らないことがあれば関係者を容赦なく叱咤したため、製作者や出演者と衝突を繰り返した。体はアルコールや麻薬に蝕まれ、晩年は実年齢よりかなり老け込んだ風貌だったと言われる。滅びゆく西部の男たちを哀切の込もった視線で描き続けたことから、「最後の西部劇監督」「西部劇の破壊者」と呼ばれた。アメリカでは残酷な作風から「血まみれのサム」とも呼ばれた。影響を受けた監督には、ドン・シーゲル、ジョン・フォード、黒澤明を挙げ、特に『羅生門』は最も優れた作品だと語っている。1984年12月28日、59歳で心不全により死去した。

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