HISTORICAL PERSON · 1984年没

レイ・クロック

アメリカの実業家。1961年にマクドナルドを買収して世界規模に拡大させ、「創業者」と呼ばれる。サンディエゴ・パドレスのオーナーも務めた。

生涯
1984年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / サン・ディエゴ)
出生地
アメリカ合衆国(オーク・パーク)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

レイモンド・アルバート・クロックは、1902年10月5日にイリノイ州シカゴ近郊のオークパークで生まれたアメリカ合衆国の実業家である。ファストフード店のマクドナルドを1961年に買収し、1967年から1973年までCEOを務めた。クロックのもとでマクドナルドは世界規模に拡大し、世界で最も成功したファストフードチェーンとなった。このため、マクドナルドの「創業者」と呼ばれている。父アロイスと母ローズ・マリー・ヒラクは、いずれもチェコ系ユダヤ人だった。第一次世界大戦中、15歳で高校を中退し、年齢を偽ってアメリカ赤十字社の救急車運転手の訓練を受け、衛生隊に所属した。同じ衛生隊には、のちのウォルト・ディズニーもいた。世界恐慌の中では、紙コップのセールスマンやフロリダ州での不動産業、ジャズバンドのピアノ奏者など、職を転々とした。

第二次世界大戦後は、厨房機器メーカーに入社し、ミルクセーキのミキサーのセールスマンとなった。より安い他社製品が登場して売上げが落ち始めたころ、カリフォルニア州サンバーナーディーノに新しい店を出すマクドナルド兄弟が、一度にミキサーを8台購入したことから、1954年に彼らのもとを訪れた。クロックは、兄弟による効率化された調理システムに興味を持ち、交渉してフランチャイズ権を獲得し、1955年4月にイリノイ州デスプレインズに最初のフランチャイズ店を出した。契約を、それまで普通だった地域単位ではなく、1店舗単位にしたことは、重要な革新である。均一なサービスと品質を保つには、フランチャイザーがフランチャイジーに影響力を持つ必要があると考えたためである。郊外にしか店を出さず、店内の清掃や店員の身だしなみを徹底させた。料理は厳格に決められ、店内にタバコの自販機やピンボールを置くことは禁じられた。

1960年代には、マクドナルドのやり方をまねたチェーンが次々に登場した。クロックは多店舗展開を嫌う兄弟に不満を持つようになり、兄弟も変更の許可を求められても認めようとしなかった。1961年、クロックは兄弟から270万ドルで会社を買収した。税引き後の受取額が兄弟1人につき100万ドルになるように計算した金額で、資金は「金融の魔術師」と呼ばれたハリー・J・ソネボーンが調達した。兄弟は最初のサンバーナーディーノの店舗の土地と権利を譲らなかった。その店は「ビッグM」と改称され、クロックはすぐ近くに新しい店を出して、ビッグMは6年後に閉店した。従業員の作業を標準化し、材料の分量や調理方法、時間、包装に厳格なルールを課して、どの店でも同じ味と品質の商品が出せるようにした。パティに大豆を混ぜてかさ増しするようなコストダウンは拒んだ。

1973年にCEOを退くと、野球好きだったクロックは、売りに出されたサンディエゴ・パドレスを1200万ドルで買収した。チームはワシントンに移転される予定だったが、クロックの買収でサンディエゴに残った。1974年4月9日のホームの開幕戦に負けたとき、場内放送で「こんなに馬鹿げた野球の試合はこれまでに見たことがない」と述べ、3万9千人のファンは賛同の歓声を上げた。クロック財団を通じて、アルコール依存症や糖尿病などの研究・治療を支援し、病児とその家族のための宿泊施設、ドナルド・マクドナルド・ハウスも設立した。生涯に3度結婚した。1977年には自叙伝を著している。1984年1月14日、心不全によりカリフォルニア州サンディエゴの病院で81歳で死去した。その時点でマクドナルドは、全米で7,500店舗、世界の31の国と地域に広がっていた。

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